Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

発音記号の弊害

以前某声楽家が発音季語やネット上のそれに対する説明をやたら妄信していた。結果ディクションはめちゃくちゃだった。ある単語の発音であまりにおかしいのでディスカッションしてみると、発音記号がこうだから、ネットにこう書いてあったから、などなど。しかし実際に発音されているものは明らかに違い、当然音楽になるわけがない。


音楽とは嘘のない真実である。例えば発音記号、世界共通のものでそれを読んでおけばとりあえずはいいかもしれない。しかし、発音記号とはあくまである程度の目安でしかなく、現実問題それぞれの人種がそれぞれの癖でそれを読むわけで、そこに訛り等を加えると、実際には発音記号でそのせいっく案発音を伝えることは不可能であり、また理解することは当然不可能である。素人レベル(旅行者や娯楽的に習いに行くレベル等)ならそれで充分かもしれないが、声楽家ともなるとそれでは話が始まらない。


ネット上の外国語に関する発音に関する説明は危険である。上記の通り、結局発音は理屈でどうこう言えるものではないが、それを無理やり理屈で語ったのがそれらである。再度書くが、上記の素人レベルであれば何も言うことはないが、声楽家など言葉を商売道具にするレベルでは論外である。当然ある程度のレベルの声楽家ならば発音記号の弊害はネット上の説明の信頼性のなさは考えるまでもなく分かっているが、しかし残念ながらその人数は相当少ない。さらに残念なのは、語学者(プロも謎の自称も含む)ですら日本では会発音には極めて鈍感で無知である。ごく一部はそうでもないが、ほとんどが発音に関してはいい加減である。一番多いのが、自分の都合で日本語化させた=カタカナ表記で日本語発音にしたものを過剰に発信する者である。言葉に限らず日本人独特のキャラクターではあるが、それゆえに実際日本人の発音(ディクション)は世界では残念ながら馬鹿にされている。音楽家は当たり前だが、語学者らもその辺をもっと研究すべきだと思う。そして、その辺が日本のオペラが世界に全く通用しない大きな理由の1つである。


発音とは音であり、声楽の場合はそのまま音楽につながるものである。発音記号やネット上のものを信じている時点で芸術でも芸術家でもない。それに、音楽以前にネット上のことを妄信する者には悲しいことにまともな人間が存在しない。音楽家には比較的少ない人種だが、それでも稀にいる。申し訳ないが、全く音楽でも芸術家でもない。なぜなら、そういう傾向にある者は非日常的空間に存在することになるので、人間性と社会性に乏しいわけである。となると、当然音楽をすることは不可能である。


立ち稽古

以前ヨーロッパの某音大オペラ科の立ち稽古を見た時のことである。ヨーロッパ各国から若い優秀な学生が集まり、わずかながら日本人もいた。その時に感じたことである。


もちろん皆学生なので誰でも未熟なところはある。しかしそれでもなかなか優秀な人材が集まっていたので、決して悪くはない。しかし残念だったのが、そんな流れの中稀に出て来る日本人が妙に浮いていたということである。というのも、明らかに取って付けた演技で歌と演技が全く合ってない、不自然なものであった。恐らく日本では優秀とされるのかもしれないし、むしろ日本では評価されるやり方なのかもしれない。しかしヨーロッパ人の中に入ると一目瞭然、明らかに違うわけである。


この辺に関してはもう何年も考え続けてきていることではあるが、まずはオペラに対する根本的な考え方とやり方の違いがある。同時にオペラに取り組む姿勢もある。そもそも民族性の問題でもあるのかもしれないが。どういうことかと言うと、ヨーロッパではオペラはまず音楽であり、楽譜から読み取り歌って表現する、そこに演技を入れるわけである。そしてオペラの演技というのは明らかにその音楽から出て来るものであり、結果論的には音楽と演技は同じ=一体化するものである。反面日本では、音楽と演技が別物である。というよりオペラを芝居として行い演技で作ってしまう傾向が主流である。ゆえに音楽と合うはずがない。この時点で音楽後回しという真逆なやり方になっているわけである。こういったことの違いから上記のような違いが生まれているわけである。他にもいくつかの要素があるが、とりあえずはここまでで。


結果できあがったものの違いを見ると、ヨーロッパ人は歌で聞かせて表現するという行為の中というか延長に演技が自然についている。日本人はその前に自分が動いて見せると同時にまず自分が楽しんでいる=やった気分になっている要素が強い。後者は表現というのとは厳密には違う。異文化のオペラをやるため最初はマネのようになっても仕方ないが、しかし日本ではオペラのみならず西洋音楽は趣味娯楽の一部に変になりすぎていて、ヨーロッパ人のそれのように心底没頭して表現する=仕事として命がけで行うという必死さが欠けると思われる。社会的文化的要因もあるかもしれないが、一つ言えることは、ヨーロッパと日本ではオペラの位置づけがまず根本的に違い、当然民族性=性格からその見据え方も行い方も違う、要するに全く別ジャンルでやり方が異なるということである。


立ち稽古の現場に行くと、いつも客観的にこういうことを考えてしまう。指揮者としてもコレペティトアとしても、それおれで求められるものが違い、当然必要とされる人材も違ってくるわけである。


明らかな違い

最近何人かのコレペティトアと接することがあり、彼らのコレペティツィオンを見学したり、また色々話したりもした。コレペティツィオンの大事なこととして、ピアノに関しては可能な限り少ない仕事で必要な情報を歌手に与えるというのがある。これは楽譜通りそのまま弾くというのではなく、例えば最低限度の構成している和音や伴奏系だけを弾くとか、歌う旋律を弾く、またはそれに対する旋律を弾ききっかけを与える等。経験のない慣れない者は中にはピアノを弾きすぎてしまう者もいるが、それではコレペティツィオンにならない。この弾き方による対応はものすごく大事である。


ところが、日本では求められるものが全く違う。コレペティトア=ピアニストと考えられているからかもしれないが、要するに伴奏者と同じように思われているせいもあり、ピアノは楽譜通り弾くのが普通とされているところがある。したがって、上記のような本来のコレペティ弾きをすると、ピアノが下手くそとか、ちゃんと練習して来ない人、となってしまうことが多い。この辺は日本独特であり、またヨーロッパと真逆なぐらいに明らかに違うところである。


最近この違いを色々考えたのだが、全てではないであろうが、気づいたことがあるので書く。まずなぜヨーロッパでは上記のようなコレペティ弾きが必要とされるのかである。先日たまたま知り合ったコレペティトアに学生へのコレペティツィオンを見学させてもらった時のことである。それは譜読み段階のものであったが、コレペティ弾きによりどんどん楽譜の解読が進み、当然歌手は歌いやすく理解が進み、見事に仕上がっていった。話を一旦日本へ移す。経験上あるのが、日本でこのコレペティ弾きをすると、もちろん人にもよるが歌えない(入れない)者や、仮に歌えてよくなっても何か腑に落ちない顔をする者が多い。言い分は上記のようなもので、いまいちコレペティトアに対して不思議な心境なわけであるが。日本の場合だが、要するに完成形とでも言おうか、伴奏部分をそのまま弾いてもらおうというものであろう。


両者を経験して気づいたことである。ヨーロッパのそれは、緻密にしっかりと譜読みをし音楽を作っていく流れ。日本のそれは伴奏に合わせて歌って慣らすというもの。さらに言うならば、ヨーロッパのそれは、歌手が楽譜をしっかり読み理解し音楽を作っていくという者。日本のそれは、その曲そのものをなぞって覚えるという者。無理やり一言でいうならば、ヨーロッパのそれは譜読み、日本のそれはからカラオケである。極端な言い方かもしれないが、傾向はそれぞれこうである。


長らくこのヨーロッパと日本の違いを考えてきた。何がどう違うのか。なぜなら同じコレペティツィオンをしても何か違う感じになるからである。上記を最近気づいた一つである。他にもいろいろな要素があるかもしれないが、確かなのは日本ではまだ声楽において楽譜を読み込むという作業がまだまだ発展途上ということである。特にオペラは演技中心な為、音楽に関してはさらに放置状態になっている。もし楽譜としっかり向き合い音楽をやると、コレペティ弾きの必要性とその意味がよく分かるであろう。