Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

現代の指揮者に欠けるもの

全ての時代の全ての指揮者を知っているわけではないが、自分が知る限り現代に生きる世界の指揮者を見て思うことである。傾向と言った方がいいのかもしれないが。


ズバリ言うと、自分を押し通し過ぎ、周りを自分に合わさせ過ぎ、だと思う。もちろんリーダーであるからにはそういった要素は必要だし、各自の個性によってもよさが違うので一概には言えない部分はあるが、全体的傾向としてそう思う。人をリーダーとしてまとめる時、自分が先頭切って引っ張る部分と、自分が周りの見聞きして受け入れる部分と両方がある。どっちがどれだけというのは前記の通り個性にもよるが、現代の指揮者はこの後者が著しく欠けると思う。結局はいずれも必要で要はバランスだと思うが、自分が経験してきた限りの指揮教育で、この後者を教えられている現場に遭遇したことは基本的にない。仮に自分がその要素を出すと否定されることさえあった。


バランス次第なので何が正しいかと言うのは厳密には難しい部分もあるし、逆に周りに対応し過ぎるとそれはそれでリーダーとして物足りなくもなる。しかし指揮者とプレイヤーの関係を見ると顕著なのが、明らかなのが、演奏の場合やはり指揮者は音を出せずプレイヤーが出すわけなので、出す人たちができる限り納得と理解をして取り組めるのが理想である。これまた度が過ぎると大勢が好き勝手になってしまうので程度は難しいが、いずれにせよ演奏の場合はこの間合いが難しく大事である。


好みの問題はあるだろうが、自分が思うに、現代の指揮者はもっと共同作業ということ、すなわちプレイヤー目線をせめてもう少し大事に意識するべきだと思う。なぜなら、これはまず直接的には音を出してくれる仲間の為であり、そして何よりそれら全ては音楽の為だからである。


民族性と音楽

オーケストラは社会の縮図と言われるが、正にその通りです。当然、さらに色々な人種が共存する劇場もこれに同じ。そのオーケストラないし劇場を考えると、その土地の民族性も見えてくると言うわけです。逆に言えば、民族性がその団体、そして音楽を作っていると言うわけです。


単純に日本とヨーロッパでは民族性が真逆なぐらいに違うところが多い。ヨーロッパに10年以上生活して、一番違うと感じたところは人との関わり方である。日本は型文化で、上下関係、縦社会、年功序列、要するに全ての物事を上下で見て考える。さらには見栄えと形を何より重視、と言うよりまずそこから入るので、中身より外見であるり、その為内面はあまり重視されない社会である。ヨーロッパは基本個人主義で、それぞれがそれおれである。そして日本と真逆で上下関係がないので、横社会である。例えば日本では上司と部下は偉い偉くないとなり上司の言うことが例え間違っていても従わねばならないが、ヨーロッパにはそういう概念がなく、上司と部下というのはあくまで役割分担に過ぎず、人としては常に同等である。ゆえに、上司の言うことが絶対ではなく、意見を主要するのは皆同じ権利である。それゆえに、物事を上下で見て考えるということはない。


これらは音楽にも物凄くよく現れている。その事例を2つ上げてみる。まずは人間関係である。指揮者とオーケストラ、管理職と労働者である。この設定は世界中どこでも同じであるが、解釈が異なって来る。日本では指揮者は偉いとされ、表向きには指揮者の言うことに従うとなっているが、ヨーロッパでは指揮者おプレイヤーもあくまで役割分担でありどっちが偉いとかではない。単に指揮者はリーダーな為その役割を果たしているわけである。この辺の感覚は上下という概念が染みついている日本人には理解しがたいものかもしれないが、しかし実際そうである。それゆえに起こって来る問題もある。当然指揮者はリーダなので目立つし人々から尊敬される人間であるべきだが、それだけに嫉妬や反感を受けやすい。当然世界中で指揮者はねたまれたり陰で色々言われやすいわけであるが、上下概念で固まっている日本ではそれは特別強く、さらには認知度が低いクラッシック音楽の現場でただでさえわがままな日本の演奏家集団、指揮者への反発は世界的にも極めて強い。ヨーロッパでも当然ないわけではないが、まずは指揮者に重要性と必要性を理解している上で、役割分担として認識しているため日本のそれをどではなく、それぞれが人としてしっかり持っているわけである。根本的なことは同じであっても、この上下というのがあるかないかで結果真逆になってしまうというわけである。これらは音楽に直接影響する。日本の場合はどんなに能力があっても上から押さえつけられるため萎縮したり完成が殺されたりしてしまう。ヨーロッパの演奏家が表現豊かで自由に感じるのはそのためである。


もう一つ。アプローチの問題であるが、日本人は形から入る、ヨーロッパ人は中身を重視する。西洋音楽をやる場合、元々その伝統を持たない日本人が形から入ると、仮に技術をそれなりに習得したところで中身が空っぽのままである。さらには、形から入ることで自分の限界を低いところに設定してしまうということになる。ヨーロッパは元々伝統で血で持っていたり、生まれた時からその地で生活しヨーロッパ言語を話している為、西洋音楽の中身は自然と備わりやすい。さらに言うならば、仮に形から入ったところですでに中身が備わっている。外人の有名教授に習っても伸びない日本人が多く存在するが、それは外人が外人への教育と同じようになるためそうなってしまう。なぜなら彼らは日本人と言う人種を知らないからである。その辺を分かった上でその指導者に行く日本人がいれば最高なのだが、さすがに滅多にいない。形から入ると言うのは、技術から、楽譜の譜づらから、主にこんなところであろう。技術からと言うのは明らかに意味不明であるが日本人は皆そうしている。なぜなら、感動してやりたい音楽があるからその為に必要な技術を習得するのであって、目的がないのに技術も存在しない。仮に先生から言われる技術だけ練習してそれこそ譜づらだけ弾けるようにしても、それは音楽では全くない。その辺、音楽の為に、というのはヨーロッパでは当たり前に存在している。違いの根本はそういったところではないかと思う。


型文化、上下関係、さらにはそれが島国であるということで外とのかかわり方が未だに下手な人種が日本人である。そういったことを分かった上で、どうやっていけばいいか、どうすべきか、そう考えて進んで行くことが音楽家としてはもちろん、人としての成長にも大いにつながるはずである。


声楽に対する理解とその必要性

オペラ指揮者&コレペティトアになるには、言うまでもなく声楽について可能な限り専門的知識と理解があるに越したことはない。仮に声楽家と同じ訓練を受けて同じぐらい歌えるわけではなくとも、歌手陣と対等に話して共同作業ができるレベルにあれば理想的である。では、オペラ指揮者&コレペティトアには実際どのくらい声楽の知識やりかいが必要なのか、それをどのようにして学ぶかである。


ズバリ言うと、現実問題ほとんどのオペラ指揮者とコレペティトアには声楽の専門t系知識理解にはかなり限界がある。さらに言うなら、かなり欠如していると言い切ることができる。まず指揮者になる者のほとんどが、基本的に器楽的タイプが多いということ。そして指揮科やコレペティ科での声楽に関する訓練が皆無に等しいことである。


自分の経験を書く。自分は指揮者&コレペティトアとしては珍しく声楽科出身である。日本の音大は声楽専攻だったので、とりあえず大卒まではプロの声楽家と同じことを同じように学び訓練してきたわけである。もちろん在学中からすでに指揮者になる決意は固めていたので、プロの声楽家を目指す者に比べると声楽を学ぶ比重は多少欠ける部分はあttかもしれないが、しかし大卒までは決して声楽に手を抜くことなくやってきた。また声楽科入試の時点から結構多くの先生に師事し、その段階にしてはそれなりの学習歴があった。何より自分がついた声楽の先生方は、表現、ディクション、発声など、それぞれがそれぞれに秀でた方々だったので、学生としては素晴らしい恩師たちに恵まれたと思っているし、実際オペラ指揮者&コレペティトアになってから役にたっていることがものすごく多い。先生方には心から感謝している。お陰で当時からプロの声楽家と声楽に関する話は同等にできるようになることができたわけで、指揮者としてもコレペティトアとしても、それらは歌手と共同作業する上でかなり強いわけである。実際そのお陰で歌手から信頼を得ることも多く、多くの場合歌いやすいとか安心とか言われる。当然これらはオペラ指揮者としてもコレペティトアとしても何よりの長所である。


オーストリアに留学し指揮科&コレペティ科に入って間もなくのことである。声楽科、すなわち演奏学科を一旦出てきているので、それに関しては高く評価され、同時に歌を知っていると言うのはヨーロッパでは音楽をやる上でなにより大事と考えられる。日本で指揮者で声楽科出身というとかなりのマイナスポイントになり、差別的に言われることがほとんどであるが、ヨーロッパは逆、これは大いに自信になった。しかし問題はこの後である。実際に指揮やコレペティで実践をする時、評価されてると思っていた声楽的要素は実際は結構否定される。前記の通り器楽的考え方の者がほとんどということがまずある。そしてそれゆえに声楽に対してあまり興味のない者が多く、知識がなさすぎるがゆえに、自分が表現した声楽的要素を皆ほぼ知らないわけである。ゆえに、何それ?と馬鹿にされるか、稀にセンスある気づいた者はその知識と能力に嫉妬する。それからもう一つ、確かに声楽家は平均的にソルフェージュ力に欠けるところがあるので、指揮者&コレペティトアはそれを厳しく正すことが何より大事と考えるため、声楽的要素=フレーズを歌うということよりも縦合わせなど形重視に接してしまう傾向がある。その為、声楽家のいい部分を殺してしまっている。簡単に言えば、決め決めな固いタイプのまじめな生徒が先生から好かれて学生に嫌われるのと同じで、ほとんどの指揮者&コレペティトアはこの決め決め学生、歌手は生徒ら、といった感じが現実に当てはまる。


残念ながら、世の中の指揮者&コレペティトアのほとんどががこういうタイプが多く、そういう者たちが仕切っている世界であるため、実は声楽に理解があり声楽家にとって理想的な指揮者&コレペティトアが生まれることは極めて不可能に近いわけである。実際に自分も最初は声楽的要素は強みだと信じて試験を受けた時は、逆にそれが理由で確実に落とされてしまった。声楽家にとっては悲しい現実かもしれないが、これは仕方ないことである。とは言え、自分は声楽家にとって本当は何が必要か、どうすべきか、経験上色々知っている。単に試験に受かるとか仕事するとかだけを考えれば、声楽的要素を捨てて機械的にやった方が簡単に事が進むということはすでに分かってはいるが、しかし一度得たいいもの、一度気づいた大切なことは人間捨てられないものである。レベルを下げると言うのは完全に正義に反するし、さらには本物をあきらめると言うことになる。


自分のオペラ指揮もコレペティも、ありがたいことに歌手からもオケからも多くの指示を頂いている。しかし指揮者から指示を得ないと世には出れないところがある。どこかに抜け道はあるようではあるが、今のところ見つけられてない。そもそもある程度のレベルでの声楽の専門的知識と経験を持ったオペラ指揮者とは世界中探してもほぼ以内に等しい。確かにそれだけでも自分のような新しい珍しいタイプが簡単に認められない&気づいてもらえないのは必然かもしれない。しかし、多くの仲間の為、何より本物の音楽の為、自分のオペラ指揮を少しでも多くの方々に伝えたいと思っている。決して間違ったことをしているわけではないので、強い信念で突き進んで行きたいと思う。