Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

民族性と音楽

オーケストラは社会の縮図と言われるが、正にその通りです。当然、さらに色々な人種が共存する劇場もこれに同じ。そのオーケストラないし劇場を考えると、その土地の民族性も見えてくると言うわけです。逆に言えば、民族性がその団体、そして音楽を作っていると言うわけです。


単純に日本とヨーロッパでは民族性が真逆なぐらいに違うところが多い。ヨーロッパに10年以上生活して、一番違うと感じたところは人との関わり方である。日本は型文化で、上下関係、縦社会、年功序列、要するに全ての物事を上下で見て考える。さらには見栄えと形を何より重視、と言うよりまずそこから入るので、中身より外見であるり、その為内面はあまり重視されない社会である。ヨーロッパは基本個人主義で、それぞれがそれおれである。そして日本と真逆で上下関係がないので、横社会である。例えば日本では上司と部下は偉い偉くないとなり上司の言うことが例え間違っていても従わねばならないが、ヨーロッパにはそういう概念がなく、上司と部下というのはあくまで役割分担に過ぎず、人としては常に同等である。ゆえに、上司の言うことが絶対ではなく、意見を主要するのは皆同じ権利である。それゆえに、物事を上下で見て考えるということはない。


これらは音楽にも物凄くよく現れている。その事例を2つ上げてみる。まずは人間関係である。指揮者とオーケストラ、管理職と労働者である。この設定は世界中どこでも同じであるが、解釈が異なって来る。日本では指揮者は偉いとされ、表向きには指揮者の言うことに従うとなっているが、ヨーロッパでは指揮者おプレイヤーもあくまで役割分担でありどっちが偉いとかではない。単に指揮者はリーダーな為その役割を果たしているわけである。この辺の感覚は上下という概念が染みついている日本人には理解しがたいものかもしれないが、しかし実際そうである。それゆえに起こって来る問題もある。当然指揮者はリーダなので目立つし人々から尊敬される人間であるべきだが、それだけに嫉妬や反感を受けやすい。当然世界中で指揮者はねたまれたり陰で色々言われやすいわけであるが、上下概念で固まっている日本ではそれは特別強く、さらには認知度が低いクラッシック音楽の現場でただでさえわがままな日本の演奏家集団、指揮者への反発は世界的にも極めて強い。ヨーロッパでも当然ないわけではないが、まずは指揮者に重要性と必要性を理解している上で、役割分担として認識しているため日本のそれをどではなく、それぞれが人としてしっかり持っているわけである。根本的なことは同じであっても、この上下というのがあるかないかで結果真逆になってしまうというわけである。これらは音楽に直接影響する。日本の場合はどんなに能力があっても上から押さえつけられるため萎縮したり完成が殺されたりしてしまう。ヨーロッパの演奏家が表現豊かで自由に感じるのはそのためである。


もう一つ。アプローチの問題であるが、日本人は形から入る、ヨーロッパ人は中身を重視する。西洋音楽をやる場合、元々その伝統を持たない日本人が形から入ると、仮に技術をそれなりに習得したところで中身が空っぽのままである。さらには、形から入ることで自分の限界を低いところに設定してしまうということになる。ヨーロッパは元々伝統で血で持っていたり、生まれた時からその地で生活しヨーロッパ言語を話している為、西洋音楽の中身は自然と備わりやすい。さらに言うならば、仮に形から入ったところですでに中身が備わっている。外人の有名教授に習っても伸びない日本人が多く存在するが、それは外人が外人への教育と同じようになるためそうなってしまう。なぜなら彼らは日本人と言う人種を知らないからである。その辺を分かった上でその指導者に行く日本人がいれば最高なのだが、さすがに滅多にいない。形から入ると言うのは、技術から、楽譜の譜づらから、主にこんなところであろう。技術からと言うのは明らかに意味不明であるが日本人は皆そうしている。なぜなら、感動してやりたい音楽があるからその為に必要な技術を習得するのであって、目的がないのに技術も存在しない。仮に先生から言われる技術だけ練習してそれこそ譜づらだけ弾けるようにしても、それは音楽では全くない。その辺、音楽の為に、というのはヨーロッパでは当たり前に存在している。違いの根本はそういったところではないかと思う。


型文化、上下関係、さらにはそれが島国であるということで外とのかかわり方が未だに下手な人種が日本人である。そういったことを分かった上で、どうやっていけばいいか、どうすべきか、そう考えて進んで行くことが音楽家としてはもちろん、人としての成長にも大いにつながるはずである。