Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

演出について

指揮者&コレペティトアは劇場においてあくまで音楽を作るのが仕事、演出に関して口出しすることはありえない。まず専門外で我々には当然演出をするノウハウもなければするつもりもない。唯一意見を述べるべき時は、もしも演出が音楽を邪魔したら、である。これは立場上責任もって言うべきだが、それ以外は基本的に別分野の話である。音楽をまとめる指揮者、動きをつける演出家、この両者がバランスよく機能して良いオペラ公演ができるのである。


オペラとは総合芸術、もちろん芝居的要素はある。しかし根本的にオペラは音楽が土台になっていて、音楽が全てを支配してると言える。芝居的要素がどれだけ大事とは言っても、やはり音楽の流れに沿ってすべては展開されるわけである。オペラとはそういうものである。ゆえに、何だかんだ言いながら結局は音楽主体にせねばオペラはできないというわけである。その辺で、指揮者も演出家もそれぞれの役割をわきまえてやるべきである。これはヨーロッパでは長い歴史と伝統がそうなっており、今更いうまでもないことである。


しかしながら、それゆえに、中には演技を過剰に主張する演出家が近頃よく現れている。オペラを芝居のようにしたい演出家は沢山いる。また演出家がどれだけ音楽を分かってやっているかが大事である。音楽を分かってない演出家が劇場の総裁になろうものなら、その劇場のプロダクションはたちまち音楽レベルが落ちる=オペラが壊れるというわけである。実は近年、世界的劇場でもこのような現象が起こっている。それにより色々と大問題が起こっている。本場ヨーロッパでそれが起こるとは悲しい話である。同時にオペラをちゃんと分かってない人が増えてきているという現実でもある。これは何も演出家だけでなく指揮者やコレペティトアにも言えることである。なぜなら、時間をかけて下積みをした者ではなくオペラの現場経験のないコンクール指揮者が劇場専属指揮者になるケースが増えてきているからである。


話を戻して。オペラとは作曲家が残した音楽である。それを舞台化するのが演出家である。プログラム等には、例えばモーツァルトの”フィガロの結婚”と書く。ダ・ポンテの”フィガロの結婚”とは決して書かない。もちろんその後台本者のところにはダ・ポンテの名は書かれるが、まず表向きに出るタイトルとしては他ならぬ作曲家である。作曲家こそがオペラの存在を確かにした者であり、その作られた音楽ことがオペラの核である。そして、プログラム等には、よほどの例外がない限りまず指揮者の名前が書かれ、続いて演出家である。ところが、近年日本では逆のことが極めて多い。これは非常に残念なことである。日本ではオペラは芝居で音楽はおまけとなってしまっているが、これではいつまでたってもオペラにならないしレベルも上がらない。今一度オペラとは何か、謙虚に知るべきだと思う。と、その前に、本来それを誰よりも早く知り伝えるべきは指揮者でありコレペティトアではないだろうか。しかしながら、現在日本のオペラ界では指揮者とコレペティトアの立場は非常に弱い。もうこうなっては何をどうしていいのか、何がどうなってこうなったのか、よく分からない難しい話である。


決して演出家と演出効果を不定するわけではない。うまく機能すればそれがオペラ上演をさらに高いものにすることは充分に分かっている。しかし、最近演出が過剰になりすぎて音楽がそっちのけになっているケースが世界的に多く、日本では極めて固まった伝統になってしまっている。指揮者もコレペティトアも演出家も、もちろん歌手も、オペラ人は皆この現実を受け止め謙虚に取り組むべきだと強く感じる。