Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

言葉の重要性

日本人は言葉ができないとよく言われる。残念ながら確かにそうである。もちろん個人単位でみれば個人差はあるが、民族的レベルで見ると、弱いと言わざるを得ない。アルファベットを使わない島国出身の者にとって、確かに簡単ではないハードルであることは事実である。今日、色々なジャンルにおいて日本人は言葉が理由でチャンスをものにできてないケースが非常に多い。最近増加している外国でプレイする日本人スポーツ選手、実際に日本にその現実がどの程度伝わっているかは分からないが、言葉ができない=戦術が理解できない、などで大事な試合に使ってもらえない、チームメイトとコミュニケーションが取れない、等。しかしその現実に対して多くの日本人は、実力があれば問題ない、言葉は関係ない、という考えを持っている。しかしこれは全くの間違えである。単に多くの日本人が言葉にまつわる経験や認識が欠けているだけの話である。厳しい言い方をするならば、それゆえに甘すぎる、意識レベルがが低すぎるのである。やはり島国というのが大きいのかもしれない。もちろん人間は本当に深い関係になれば言葉を超えた意思疎通など通じ合う大切な要素は色々あるが、仕事や生活での基本はやはり言葉であり、しっかりとコミュニケーションを取る、はっきりと意見を言う、というのは国際社会においてまずできねば話が始まらない。


日本の音楽家もまさにそうである。言葉ができないためにチャンスをものにできないケースは色々ある。国や地域によって差はあるかもしれないが、ドイツ語圏のほとんどの音大では言葉ができないと例えどんなに実力があっても門前払いである。ある程度の語学試験を実施する音大もあれば、ある程度の語学検定の証明を提出される音大まである。それゆえに、近年は留学の段階でそれなりの語学レベルが求められるため、まず語学留学をする者が増えて来た。しかしそれでも尚、そこまでの準備をしないもの、そのことにすら気づかない者も少なくない。こればかりは現地へ行って現実を目の当たりにしないと気づかないのかもしれない。あるいは気づいたところでそれで怯んでしまってあきらめる者もいる。もちろんそういう者はその程度だったというわけではあるが。


では音楽的な意味ではという話だが、まず言うまでもなくレッスンから練習に至るまでやはり言葉は常に必要であることは言うまでもない。そしてオペラやリートなどに携わる者はテキスト研究や解釈に至るまで奥が深い。言葉を扱う声楽家は言わば言葉のスペシャリストであり、その声楽家と相対する指揮者、コレペティトア、伴奏者らは当然声楽家と同等かそれ以上でなければ対応できないわけである。ざっと述べるとこんなところであろうが、言葉で言うのは簡単ではあるが、実際に実践するのはかなり時間も根気もいる大変な話である。


また現地の言葉で現地人と話さないと分からないこと、学べないことも非常に多い。言葉が変われば考え方も表現の仕方も変わって来る。まずはその感覚と経験も大事だが、最終的に本質を理解するにはやはりその言葉で考えて感じなければということは多い。ある程度その言葉に慣れてきたら、だんだんとその言葉で覚える言葉が出て来る。最初はやはり母国語に置き換えて勉強するが、ある程度のレベルに来るとそうなる。ゆえに母国語で何と言うかがすぐに分からなくなる。数年その言葉で生活しているとだんだんとそうなって来ることが非常に多い。これらは外国語で歌唱するオペラやリートではもちろんそのまま使えるもので、むしろいちいち母国語に置き換えているようでは、考え方も感覚も未だ母国語の範囲から脱出できてないということになり、本質的に外国語のオペラにはならないというわけである。例えば未だに極めて多いのが、日本の声楽家でオペラのヴォーカルスコアに日本語の歌詞の意味を日本語で書く者がいる。多くの声楽指導者がそうするように指導しているのであろうが、これではいつまでたっても日本人のままである。逆に言えばその言葉や音楽を理解する意思がないということにしかならない。言わばカンペのようなものである。本気でオペラを追及したいならば、ある程度のレベルで歌いたいならば、今すぐやめるべきである。せめて他の紙に書いて覚えて、楽譜は原語だけで対応しないといつまでたっても音楽にならない。ゆえに、我々指揮者&コレペティトアは、ご丁寧に日本語でしっかり歌詞が書かれたヴォーカルスコアを見ると、致命的に失望してしまうのである。


もう一つ、発音に関して。やはり人間どうしても多かれ少なかれ自分の母国語の訛りや癖が発音に出てしまうものである。人種によっては限界があるかもしれない。母国語にない音を練習して発音するのは難しい。そしてその前に耳が大事である。聞こえない&聞き取れない音というのは絶対に正確に発することは不可能である。ゆえに難しいことではあるのだが、音を商売道具とする音楽家はやはり発音は必要不可欠である。声楽家が発音が必要なことは言うまでもないが、器楽奏者も本当は同じである。作曲家が書くフレージングやアーティキュレーション、ドイツ語を話して生きているドイツ人やオーストリア人のそれはやはりドイツ語、フランス語を話して生きているフランス人のそれはやはりフランス語である。そのことを意識して勉強すべきであるし、またそれが分かって来るとものすごく世界が開けて来る。残念ながら日本の音楽家はこのことをご存じない方がまだまだ多いが、是非知って頂ければと思う。


声楽家にも器楽奏者にも接する指揮者は当然誰よりもこれらが必要である。そしてコレペティトアも、少なくともドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、チェコ語、ロシア語、など多くの言葉が存在するオペラ、もちろん全て完璧に習得するのは難しいまでも、少なくとも自分がこれと決めたジャンルのディクションは仕留められるぐらいにはしておかねばならない。声楽家はこれらをまともに扱うのであるが、やはり人間なので、なかなか全てをそつなくこなせる者は決して多くはない。そういう方々を言葉の面でもうまくサポートできるコレペティトアがいれば素晴らしい話である。


言葉はこのようにしてコミュニケーションからディクションまで極めて重要なものであるが、音楽家にとっての言葉で一つ大切なことがある。音楽を表現する、演奏する、これらにおいて最も大切なのもの、直接音楽に影響する部分というのは、その言葉で感じて考えて伝える、表現する、というその感覚である。これはそれぞれの言葉にそれぞれのキャラクターがある。これこそが音楽そのものになりえる要素である。したがって、単にやたら喋れればいいと言うわけではない。かと言って喋れなくていいというわけではない。もちろんコミュニケーションなどの意味で必要ではあるが、音楽的な意味ではもちろん喋れれば早道な可能性は高まるが、喋れることそのものよりも中身、すなわち感覚の方が大事である。このことを是非知って頂きたいと思う。実際に、めちゃくちゃ喋れるが、全くオペラが振れない指揮者という者は誰が何と言おうと結構いる。これは喋れるが音楽に生かされていない典型例と言える。もちろんそういう指揮者はコミュニケーション力は極めて高いであろうから、指揮者として仕事は充分にこなせるであろう。これはこれでもちろん指揮者としての高い能力の一つであろう。しかし言葉が直接生かされるオペラでは不充分というわけである。


話をまとめよう。国際社会におけるコミュニケーションの必要性から来る言葉の重要性、音楽的な意味での言葉の重要性、長々と書いてきたが大きく分けるとこの2点となる。コレペティトアは音楽家の中でも特に言葉を使うことが要求される筆頭と言える。これらのことを理解した上で学んでいけば、目標や方向性がよりはっきりするであろうし、それである程度のレベルに到達した場合、有能なコレペティトアに慣れる要素の一つを充分に持ち合わせることになるであろう。