Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

表現と陶酔

この二つははっきり言って真逆である。しかし日本ではとんでもない勘違いが多い。両方の区別がなくなったり、ごっちゃになたり…。演奏家にとってある意味最重要と言えるかもしれないぐらいのことだが、表現と思って陶酔している人が残念ながら結構多いのである。


表現とは人に伝えること、陶酔とは感動して自分自身が浸る、内に入り込むことである。言いかえれば、表現は自分から人へ向けて、陶酔とは自分の内へ、要するにこの二つは本当に真逆である。しかし、この自分の内である陶酔を表現を思い込んでしまっている勘違いが非常に多いのである。これは、傍から見ると本人が一人で酔いしれたり、いってしまっていたり、といった状態である。よく見ることかもしれないが、これは演奏家=表現者としては論外である。もちろん演奏家はまず自分自身が感動しないと表現の対象である音楽が分からないということになってしまうので、まずは聴き手の立場や勉強する時には陶酔することはある意味必要かもしれない。しかし演奏する場合は前記の通り方向が真逆になる。そしてさらに難しいのは、演奏家の場合この問題が他の要素によってごまかされやすい場合もよくある。例えば声楽家なら持ち声がものすごくいい場合、ピアニストなら指の技術が物凄い場合、など。これらはあくまで演奏技術等の表面的要素であり、表現などの音楽的部分ではないから人に感動を与えることはない。しかしハイレベルの技術や美声は人を圧倒することはできる。それにより表現の悪さをカバーしている場合もある。これではテクニシャンであっても表現者ではないわけである。


特にオペラの場合難しいのが、まず声を一番大事と思い込んでしまっている歌手、演技が一番大事と思い込んでしまっている歌手が残念ながら非常に多い為、それゆえに自分が役になり切る、演じるということが変に過剰になった場合、陶酔や自己満足につながりやすい。また声というのは楽器と違って自分では聴こえにくい。ゆえに外へ出す表現と内に込める陶酔がごっちゃになりやすい。その辺が声楽の難しいところであろう。自分が指揮者として、コレペティトアとして、これまでに多くの歌手と共同作業をしてきたが、問題が起こる時の大部分はこれらの問題であることが極めて多い。しかしこれはその場やそのプロジェクトの期間で修正することは不可能に近いわけである。でも指揮者&コレペティトアがそのことを分かって冷静に見極められれば、それでも少しでもレベルの高いものが作れる可能性は高いわけである。またオペラの現場においてこのことに気づけて指摘できる冷静な立場にいる人材は指揮者&コレペティトアだけかもしれない。もちろんまずその音楽、楽譜が大事ではあるが、同時に同様に表現についても考えるべきである。指揮者は自らは音は出せないが、一緒に演奏するわけであるから、歌手以上にそのことを分かっていればさらに歌手に対していい導き方ができるはずである。コレペティトアも練習の段階から歌手に指示ができるので、比較的早い段階から表現レベルが高い公演を目指す支えになるであろう。