Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

指揮者の危機

現代の指揮者の現状について、コレペティトアにも大いに関係している部分がある。全世界の指揮者の世界を見たわけでもなければ全世界の指揮者全員を知っているわけでもないので一概に言えない部分があることは百も承知だが、しかしヨーロッパと日本を中心に自分の知る範囲では少なくとも危機感を感じる。


指揮者とはオペラやオーケストラなどのアンサンブルにおける音楽的リーダーであり、音楽監督などの責任職になるとプログラミングから人事的なことなど、色々な責任が課せられる。ゆえに、まず音楽的に広く深い理解と能力が必要なのは言うまでもなく、同時に王税をまとめるリーダー性、牽引力、政治力等が必要になる。簡単に言えばこんな感じである。もちろん指揮者も人間なので、得意不得意は音楽的にも人間的にも皆それぞれ。ともかく音楽的な部分と人間的(精神的)部分の両方が誰よりも求められるわけである。色々なタイプがいるとは言っても、これらの最低限度は最低限度必要なわけで、タイプとはその先の話になる。ゆえに指揮者には適性が確かにある。音楽的な部分はある程度訓練次第であるが、人間的な部分はやはり向き不向きがある。理想の指揮者像というのはそれゆえに極めて難しいものである。やはり人それぞれの好みや団体の求める傾向などがある。とは言え、音楽的にも人間的にも信頼を得なければならず、少なくともメンバーを納得させる音楽的能力と、メンバーが納得する人間性、すなわちプレイヤーとのやり取りにおける信頼関係を築けるということが必須になる。


当然これを目指し世界中で多くの若者が指揮者を目指し長くつらい修行をするわけであるが、個人的に思うのが、今日の指揮教育において、音楽的な部分はともかく、その人間的な部分、すなわちプレイヤーとの信頼関係を築くと言う部分において、なかなか厳しい現実であるように強く思う。決してそれを考えてないわけではないが、何かが違うような感じである。というのは、ズバリ言うと、明らかに欠けるのは”プレイヤー目線”である。リーダーである指揮者はプレイヤーにはない要素が必要になり、プレイヤーだけではどうしようもない部分を補う必要があるが、しかしそれゆえにもプレイヤーの心理状態、演奏的都合など、逆の目線=客観性を持つことが大事である。それゆえに、指揮者になるにはまず歌か楽器をそれなりにやってから…という考えも歴史的にある。しかし今日これがものすごく不足している。さらに言うならば、極端な話、指揮台に立つとプレイヤーのそれを無視した独裁的なふるまいをしたり、はたまたプレイヤー出身の指揮者でも指揮台ではせっかくのその経験を忘れているか捨てているかのようなのを非常に多く目にする。確かに指揮者としての役割とプレイヤーを受け入れる目線のバランスは難しいかもしれないが、明らかに後者が欠けすぎている。


具体例をあげて説明する。例えば小中学校時代を思い出してほしい。リーダー性のある者が進んで学級員や生徒会長に立候補する。積極的なため仕事はできるかもしれない。しかしそういう者の中には仕切りたがりが強すぎるがために、周りの意見に耳を傾けず暴走して、結果チームワークが乱れたりなどして機能せず、信頼関係を失ってしまうという者も少なくない。前述の指揮者のそれはまさにそういうことに近い。リーダー性があり能力もないわけではないかもしれないが、しかし人へ目も気もやらない&やれないがために、結果としてリーダー失格になってしまうという様。これではうまくまとまらず、合唱コンクールでは賞は取れず、体育大会では試合に勝てず、ということになる。指揮者にそのまま置き換えるなら、オーケストラもオペラもまとまらず、音楽が出来上がらず、いい公演にならない、その前にいい団体として存在できないとなる。仮に大問題にならなくても、いまいち不発に終わったり、低迷期を迎えたり。これでは残念である。これまでの自分の経験、指揮科、指揮マスタークラス、仕事などの経験から、今日の指揮者にはこの傾向が極めて強いと感じたわけである。


ではなぜそうなったのか、これが大事である。人間的要素だけを考えると、確かにリーダーになりたい者には前述の勢いだけあって周りが見えないタイプは確かに多い。ではなぜ指揮者にそういうタイプが増えて来たのか(そもそも自分が生きてない昔どうだったかは知らないわけだが、少なくとも現在増加していることは確かということである)。理由はいくつかあると思うが、一番大きいのがコンクールであると思う。20世紀後半から21世紀にかけてコンクールが盛んになって来た。指揮者も例外ではない。元来指揮者とはオペラ劇場でコレペティトアとして長い下積みを経験した後に指揮者になるというのが伝統であり普通だった。この歴史的常識は一応は今も変わってないはずではある。しかしコンクールができたことにより、そういった長く厳しい修行をふっ飛ばしていきなりデビューという時代がやってきた。これにより、まず地道な基礎訓練が散漫になる。コンクールという一攫千金の魅力があるがために、下積みを面倒くさがってしまうようになり、コンクールなどでとりあえずオーケストラが小奇麗に振れれば早道と安直に考えてしまう者が増えて来たというわけである。そしてそうなるにつれて起こって来たのが、何度も書いてるようにプレイヤーとのやり取りである。どういうことかというと、長い下積みを経て指揮者になった叩き上げには、長い歌手やプレイヤーとに地道な経験があり多くのことを学んでいる為、それでいてある程度のランクの指揮者になった者ともなれば、プレイヤーとの共同作業に何がどう必要かが分かっている人が少なくとも今よりはかなり多かったのではと思われる。ところが、コンクールで下積みなしの早々デビューが増えて来ると、その大事な経験をしないー=プレイヤーとの共同作業の実践的訓練が極めて少ない、そんな指揮者が多発してくるわけである。それで前述の周りが見えない独裁的リーダーがそれにはまると、当然プレイヤーとうまくできない指揮者が増えるのは仕方のない話である。


もちろん全員ではないが、あくまで傾向としてだが、残念ながらこういう状況が今日の指揮者に世界に多いと思う。その為、例えばコンクールなどで何人かの指揮者の演奏を指揮仲間と一緒に批評などしようものなら、プレイヤーといかに音楽をやるかという基準で評価する者はほとんどいない。ほとんどの指揮者がいいという指揮者は、傾向として理論的かつ技術的で、バシバシと進めていく機能的=機械的タイプである。それがよく機能する時ももちろんあるが、しかし多くの指揮者の興味はひたすらそういったところに集中する。それではそれ以上の音楽性や人間性は広がりにくいわけである。最近ではそういう傾向にある指揮者の世界から出て来たコンクール指揮者が下積みなしにいきなりデビューして劇場専属指揮者にいきなりなってしまう時代である。そういう指揮者が増えて来て、さらに彼らは彼らの好みの指揮者(コンクール指揮者やプレイヤー目線のない指揮者)をどんどん採用していく。このままでは近い将来本当の意味での”いい指揮者”はいなくなってしまうのではないか、というより、指揮者の存在価値=職業としての意味が変えられてしまうのではないか。個人的にはそこに危機感を感じている。


この発言はひょっとしたら多くの指揮者から批判を浴びるかもしれない。しかしプレイヤーらからするとそんなことはないと思う。指揮者とプレイヤーの距離感、非常にデリケートで難しい問題かもしれないが、そこを考え実践して行くことはある意味音楽よりも大事と言ってもいいぐらいな気もする。もちろん音楽が出来なければ意味ないし、人間的部分がうまくいけば音楽が少々欠けてもいいというわけでもない。しかし音楽がどんなにできても、人間的部分がある程度ないと難しいのが指揮者というものでもある。今日、日本では残念指揮者嫌いが極めて多い。オーケストラの現場では可能な限り指揮者なしでやりたい、いまいちな指揮者なら排除したい、そんな雰囲気がものすごく強い時がある。これは日本の民族性の問題もあるが、あえていうならば指揮者に原因があるというところもある。また日本ほどではなく日本とは全然傾向は違うが、ヨーロッパでもやはりプレイヤー対指揮者の問題は存在する。結局のところこれは指揮者にとって永遠の課題と言えよう。でも一つ確かなのは、オーケストラとはいわゆる会社のようなもので、指揮者は管理職ならプレイヤーは労働者になる。そんなシチュエーションで、労働者が管理職に対して何かしらのコンプレックスを抱えることは人間社会において仕方のないごく自然なことである。指揮者は自分の立場とそこで自分が何をすべきか、どう必要とされているのかを常に考えるべきである。