Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

コンクールについて

近頃の傾向を見ると、全体的にそうではあるが、日本でそれなりにやっていける指揮者の条件は、はっきり言ってコンクールのみということである。これには色々と謎が多い。まずは日本はコンクールが大好きで異常に崇拝していると言うのはあるが、そもそもしの理由が謎である。


指揮者コンクールとは、ある種品評会みたいなものである。しかし完全に芸術ではなくビジネスである。我々芸術家や演奏家が思い描くものとは現実は程遠い。なぜなら、まずこれは実力者を探しているわけではないということ。コンクールで上位入賞したならば、そのオプションでとりあえずはいくつかのオケを振れるわけであるし、それに連なるチャンスを来ることがある。要するに、主催者は入賞者を商品としてビジネスを展開するわけである。ゆえに、実力者よりも自分たちが扱いやすい者を通すわけである。ビジネス的に扱いやすい者とは、残念ながら芸術的に優れたものではなく、極めて形式的で表面的な傾向になってしまう。ゆえに受験者(指揮者)からすると信じがたい結果になることがほとんどである。それでも人生一攫千金を狙い受け続ける者は多いが、完全に数打てば当たるの世界である。なぜそれを狙い続けるかと言うと、ビジネス的で芸術的な者とは程遠いとはいえ、デビューするには手っ取り早いからである。今の時代はヨーロッパでも不況なため、短期決戦、大量生産のごとく、コンクールビジネスで持ってデビューして展開するパターンが増えて来た。逆に言えば、劇場叩き上げのような本来の指揮者を目指す者が、それを面倒くさがり手っ取り早いコンクールを目指しているからである。ゆえに今世界中の指揮科ではシンフォニー指揮の教育に徹底してきていて、棒有名指揮科を出てもオペラのレチタの振り方すら知らないのが普通である。当然、コンクールでオペラ課題の審査があっても、その審査は奇妙極まりない。歌手に対して極めて器楽的にはめ込んだ指揮をした者が高得点を取り、歌手とうまく共同作業をしていい演奏を作ってもほとんどの審査員は興味すら持たないどころか否定することがほとんどである。こういった経験は、ある程度分かっている人や勘のいい人であれば、2~3回国際指揮者コンクールを受ければ充分に分かってしまう。それでも大穴を当てようと挑戦を続けるか、馬鹿らしくなってやめるかは、その人次第である。


このような現実は演奏家の間では近頃そこそこ有名な話である。しかし日本にはまだまだ伝わって来てないようである。それどころか、コンクールの通ってないと全く相手にしないのが現実である。実際のところ、コンクールはそういう状況であり、それゆえにコンクール指揮者=上位入賞者の平均レベルは残念ながら低いわけである。もちろん中には悪くない者もいなくはないが、その率は時代と共に極端に落ちてきている。全盛期のコンクール入賞者は最近よりも平均レベルは高かった。自分もそういう指揮者を何人も知っている。しかし今は…。本当のいい指揮者とはコンクールと無縁のことが多い。とすると、日本はいい指揮者を求めてないと言うことになる。ビジネス色が強いのかもしれないが、とにかく名のある者にしか目を向けていないのは事実であるし、日本人指揮者にせよ外人指揮者にせよ、コンクール指揮者よりはるかにレベルの高いいい指揮者は実はいっぱいいる。メディアやマネジメントはそこに目を向けずコンクール入賞者に固執する。それは売りやすいからであることは分かり切っているが、それより何より本当にいい指揮者をdした場合、結果がさらに良くなる可能性も大いにあると思う。思うに、一般の聴衆は、確かにコンクール好きは多いかもしれないが、純粋にいい演奏を求める方々も実は結構いるし、メディアやマネジメントはその辺もう少し楽に考えてもいいのではと思う。そうすることにより、音楽界がより活性化するのではという気がしないでもない。例えば、コンクール等の実績はないが、実は実力者、苦労人、などで、陣の実力を発掘すべく応援します、とういったサクセスストーリー的なものを好むファンもまた日本に多いと思う。そうやって、本来出るべき実力者=真の芸術家を発掘することこそが、本当は一番大事では仲と思う。


このままの傾向だと、世界の指揮者のレベルは引き続きどんどん落ち続けるであろう。これから何がどうなり、どういう傾向になって行くかはよく分からない。予想できる部分とそうでない部分がある。大事なことは、基礎となる部分を忘れてはならないと言うことである。何が大事か、人は何を求め、何に感動するのか。ヨーロッパでも、基本コンクールはそこまで信用されてはいないが、時代の流れや社会の状況により、ビジネスとしてコンクールが発展せざるを得ない流れになって来てしまった。日本はどうなって行くのか、どうすることができるのか、ふと考えてしまう。