Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

KPB声楽特別セミナー”ルサルカ”

KPBでは、ルサルカ公演を記念して、以下の通り講習会を行います。日本でも有名なルサルカのアリアの為のものです。チェコ語のディクションから音楽的なことまで、本場直輸入のものを提供致します。ご興味持って頂けた方は是非どうぞ!


歌手のレベルが分かる部分

ヨーロッパと日本の両方で何度かオペラを振ったりコレペティしたりして色々気づいたことがあるが、その中で歌手のレベルが分かる要素がいくつかある。その一つが楽譜の勉強の仕方、さらに言えば譜読みから初練習(コレペティ)までの準備の仕方である。音を取って来るのは当然として、もう一つ大事な要素にディクションがある。このディクションに対する姿勢とやり方で、その歌手のレベルがものすごく分かる。


まず一番簡単なことである。日本の歌手に極めて多い、いや、ほぼ全員に近いレベルでそうであるかもしれないが、楽譜に日本語で歌詞の意味を書き込むことである。これは致命的に悪い勉強の仕方である。言いかえるなら、音符の読めない素人が音符に階名を書くのと同じである。それを音符ではなく言葉でやっているというわけである。もちろん、初めて外国語を勉強する時は皆そうであるし、歌手も当然慣れるまでは仕方ない。しかし楽譜の段階ともなると別である。言葉の勉強=ディクションの準備、一番普通なのは別紙、すなわちリブレット等を活用し勉強することである。歌詞を母国語で書きたければここに思いっきり書けばいい。楽譜に書いているようでは、まず単純に外国語で歌うはずのオペラなのに、母国語の枠(感覚)から離れられない。その前に、書くと言うことは忘れないように確認するための行為であり、歌いながらそれをなぞりながらということはあり得ないわけで、この書いている時点で歌詞を覚えてもいなければ研究も不十分というわけである。仮に練習時にそれを眺めて内容ぐらい頭に入っていても、演奏として十分なレベルには程遠いわけである。これまでに何人もの歌手で歌詞を日本語で書いている歌手を見て来たが、残念ながら皆ある一定の低レベル内にいる。その中で多少の個人差はあれど、決して本格的にオペラができるレベルにはない。ましてや、それをやっているうちはヨーロッパでは通用するはずがない。


そもそもなぜ日本の歌手のほとんどが楽譜に歌詞を日本語で書くのか?まず一つは、これは自分も声楽科時代に経験があるが、日本のほとんどの声楽の先生が弟子に書けと教育するのである。これが間違えのもとである。確かに日本人は英語を勉強する時もそうする。最初はともかく、ずっとである。そして日本人の英語の勉強の仕方は悪いだの、書けても話せるようにならないだの言われる。実は日本の声楽家は、例外なくオペラでもそれをやり続けている。したがって、内容も理解した、下手なりにも発音できる、しかし話せない=歌えない、ということである。ちなみに、自分はこれまでにヨーロッパで多くの他国籍歌手と接してきたが、今まで楽譜に母国語で歌詞を書いていたのは基本日本人しか見たことがない。実は中国人にも1人見たが…。少なくともオペラ指揮者は、歌手の楽譜に母国語で歌詞が書かれていたら即マジでドン引きするし、その時点でその歌手への評価が大体下ってしまう。そしてまず演奏家としての信頼はなくなる。同時にどう接して行こうかと、時には真剣に悩む。皆当たり前と思ってやっていることかもしれないが、実はここまで致命的なことであるということを一人でも多くの歌手に気づいて頂きたい。自らが自分の歌手生命を駄目にしていることを。


難しいことに、このディクションのことをはじめ、日本独特のよくないオペラのやり方(例:オペラを芝居と思い込んでいる、等)は、多くの場合皆かなりこだわっているように思える。ゆえに周りが誰が何と言おうと変えようとしないどことか、むっとされてしまう。それは本当に逆切れしているのか、本当に気づいてないのかはわからないが、いずれにせよ日本のオペラ界は何とも言えない独特な空間になっており、自分達の考え方とやり方を変えることは絶対にしたくないようである。それゆえにか、日本のオペラ歌手のほとんどは、音楽ではなく芝居がしたい人の集団になっている。芝居がしたくて、音楽には大して興味がない、これでは指揮者&コレペティトアにできることはないわけである。


話を戻して、日本国内で趣味のごとくオペラをやる分には、確かに楽譜に日本語を書きまくっていた方がある意味いいのかもしれない。しかし、本場本物を目指すのであれば論外である。自分がオペラ指揮者&コレペティトアとして日本でできることはごく限られているようである。しかし、稀にいる、純粋に大事なことに気づいて本場本物を求めたい歌手と出会えたなら、それはできる限り協力したいと思うし、またその出会いは自分にとっても本当に宝物である。


オペラ界の今

先日付き合いの長い学友と会って飲みました。彼は元々声楽科でしたが、当時からリート伴奏が好きでよく伴奏もしていまして、色々あって結果、大学講師になり声楽科の学生にコレペティをしています。自分も声楽出身でオペラ指揮者&コレペティトアなので、彼とは経緯も活動内容も共通点も多くかなり話が合います。基本的ン合えば話すことは学生時代と変わってないのですが、お互いそれぞれがそれぞれの経験を積み重ねているので、そのレベルはどんどん上がっていきます。そして現在、お互いヨーロッパの音楽界の現状に直面しているわけですが、気の重い話が多い…。


今回一番そうだったのが、現在のオペラ界の現状でした。近頃、オペラ指揮者&コレペティトアのレベル低下が致命的で、そして指揮者=音楽レベルが下がった結果演出面が表に出て来るようになったが、音楽を分かっていない演出家が多く、オペラなのに芝居的になって来た結果、オペラ界全体が壊れてきているということ。


まずは音楽面から。簡単に言うと、オペラのちゃんとした下積みや修行をしてない者、すなわちコンクール指揮者等がいきなり劇場指揮者になるようになり、要するにオペラを知らない(振れない)指揮者が急増し、その部下の指揮者とコレペティトアもそういう指揮者が選ぶ。本物が瞬く間に消え失せていく。ベテラン歌手はともかく、若手歌手は世に出て来て最初に出会う指揮者らがこれなので、こういうものと思い込んでしまう。となると歌手のレベルも比例して落ち続けると言うもの。ベテラン歌手はこの現状を嘆いています。


演出面。そもそもオペラとは作曲家が残した音楽作品であり、そこに舞台的要素を付け加えることにより舞台作品となりえるわけで、ヨーロッパではこの基礎は揺るがない。しかし、前記の音楽レベルの低下が起こり続けているため、いくらこの基礎が揺るがなくても弱くはなり、結果土台がないまま演出面の比重が増えてしまう。これではオペラにはならないわけである。そして演出家が音楽を分かっていればいいが、そうでない場合はオペラを芝居としてやろうとするとんでもないことになってしまう。ゆえにオペラがどんどん低レベルで奇妙なものになっていく。


これを打破するには、やはりちゃんとして本物のオペラ指揮者の再誕生が必要である。演出家はこの現実を受け、音楽を壊さぬよう、オペラの存在意義を再認識すべきである。例えば日本の場合はこの音楽面が元々なくいきなり演出面ばかりが出て来て、目に見える形(芝居)が好きな日本人の間ではオペラ=芝居となってしまった。これはある意味どうしようもない民族せいかもしれないが、ヨーロッパではオペラ=音楽で今もなくなったくぁえではない。今後どうなっていくか心配ではあるが、しかし厳しくいかねばなかなか難しい問題である。