Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

指揮者という職業

日本にも指揮者志望の若者は近頃多い。日本には指揮科のある音大は限られているが、そもそも指揮者になるには指揮科に行かなければならないという定義はなく、むしろ指揮科を出ていない指揮者の方が優秀なことは歴史的極めて多い。指揮講習会、オペラの副指揮者、オーケストラの指揮研究員等、指揮を学べる環境は探せばいくつかはある。


ヨーロッパ、特にドイツ語圏では、指揮者は伝統的に劇場でコレペティトアとして修業を積み、後に指揮者に昇格して劇場正指揮者となり、長年の経験を経てオーケストラの指揮者になるというのがある。そのためドイツ語圏の音大の指揮科、特に旧東ドイツの指揮科では、指揮科に入ると指揮と同等かそれ以上にコレペティのレッスンを筆頭に劇場へ進むべく教育カリキュラムが整っている。これを一般的に”Kapellmeisterstudium”と言うが、要するに指揮者教育とは前述の劇場へ入って修行を積んで指揮者に成長して行くであろう者の準備段階である。ドイツ語圏以外でも、キャラクターの違いこそあれど、基本的にオペラが軸になっていることは歴史的に自然な流れである。


ところが最近、世界的に指揮者コンクールが流行りだし、また不況と同時に劇場の衰退もあり、指揮者という人種の需要と供給のバランスも以前よりかなり悪い。指揮者志望の者が多発し、でも入る余地があまりに限られている。そして指揮者コンクールだが、当たればでかい一攫千金的要素がある。コンクールに優勝したならば、コンクールの規模にもよるが、賞金のみならずオプションで数団体のオーケストラに客演ができる。一気にチャンスが拡大するわけである。前述の劇場叩き上げ指揮者は、非常に長い年月を要する。それよりもコンクールでデビューする方が手っ取り早いとなるわけである。ゆえに、近頃多くの指揮者が、コンクールでデビュー、すなわちまずオーケストラを小奇麗に振れれば早道、と考えてしまっている者が極めて多いが、しかしこれがとんでもない間違えである。


今日、巨匠が生まれにくい時代と言われているが、指揮者に関して言えば、まさに今書いた通りが原因ではないかと思う。”劇場叩き上げ指揮者 < コンクール指揮者”、この現状だと明らかに修行の年月も経験値も現代指揮者は低いわけである。ゆえに残念ながらいい指揮者は減って来ている。オペラ指揮者の減少というのはそのまま指揮者の平均レベル低下を意味するのである。


そんな現実はあれど、しかしながらやはり歴史的に指揮者はオペラからというのは常識で、未だにベテランやよく分かってらっしゃる音楽家は皆同じ考えである。ヨーロッパでは、確かに劇場叩き上げを面倒くさがったり嫌ったりする若手指揮者は増えては来ているが、どこかで”本当はオペラ”というのは存在しているであろう。


で、日本はであるが…。オペラ劇場のなかった日本、指揮者の伝統も歴史もいきなりコンクールから始まったと言っても過言ではない。指揮者に限らず全ジャンルにおいて日本では異常なまでにコンクールを崇拝している。これはこれで不思議な現象ではあるが、しかし本当にそうである。で、今日の日本では指揮者ははっきり言ってコンクールで当てるしか道はない。そういう指揮者でないと日本のオーケストラも音楽事務所も目を向けないのが現実であるし、また一般のファンもコンクールに通らない指揮者を指揮者と思ってないところもかなりある。正確には、指揮者とはコンクールでデビューするものと思い込んでいるかの如く。また本来音楽家であり芸術家である指揮者をあたかも芸能人やタレントのごとく見せ物的に思われていることが非常に多いようである。指揮者は確かに目立つが、決して見せ物として振っているわけではなく、音を鳴らすために、音楽を作るために振っているわけで、間違っても演技ではない。


そういうわけで、日本の指揮者を目指す若い世代も、必然的に指揮者とはコンクール、すなわちシンフォニーを振る者という認識になり、それに憧れそれを目指すことが多いのである。確かに劇場がない日本でオペラを学び目指すのは不可能である。指揮科でもオペラを振るという前提の教育は行われていない。話をまとめると、ヨーロッパと日本では、指揮者という職業に違った認識をしているのである。根本的なところで、歴史的伝統的にヨーロッパはオペラから、日本はシンフォニーから、である。となると、出来上がったもの=指揮者像も当然変わって来る。ヨーロッパでは音楽家、日本では芸能タレント、ヨーロッパでは芸術家、日本では見せ物、などである。


自分は日本で生まれ育ち日本で指揮に興味を持ち、後のヨーロッパで学びヨーロッパのやり方で育ち指揮者&コレペティトアになった。確かに最初は日本で指揮に興味を持った時はオペラ指揮とは知らなかったレベルである。正直オペラ指揮を本格的に志したのはそれからかなり後のことである。ゆえに日本で指揮者というと前述のような考え方になるのも分からなくはない。ただ自分は、”やるからには本場で本物を”、という考え方なので、その後色々あった結果、指揮の元祖であるオペラに目覚めたわけである。


これらから、コレペティトアは指揮者がまずなる重要職であるのだが、日本ではコレペティトアはピアニストとごっちゃになってしまっているため、ピアノ科出身の者が興味を持つことが多い。後に実際はそうではなかったと知り辞めて行く者がほとんどだが、しかし本来ストライクなはずの指揮者がコレペティトアにという流れは今のところ全くと言っていいほど目にしない。やはりシンフォニー、コンクール、では仕方ないのかもしれないが、日本でも本来あるべき姿、指揮者=コレペティトア、がもう少し出て来ると、色々な意味で日本のオペラ界もいい要素が増えて来るのではと希望を持ちたいところである。また日本の指揮者もレベルが上がるのではないかと思う。


採用基準

コレペティトアはもちろん、指揮者も、歌手も、オーケストラ団員も、劇場に入る者全てが通る道、それが採用試験である。やり方はそれぞれのジャンルの特徴があり、それぞれが大体決まったやり方で行われている。似たような課題で、劇場の意向や規模等によって、その決まった範囲の課題で何がどの程度出るか、といった感じである。


経験ある方ならお分かりかと思うが、この採用試験と言うのは色々な意味で本当に難しいものである。ある意味コンクールもそうかもしれないが、数打てば当たる的要素もある。自分の経験と審査する側から聞いた話をもとに、劇場採用試験の採用基準について書いてみる。


親しくさせて頂いている某ドイツの劇場のGMD(音楽総監督)が言われていることである。「採用試験は、決してうまいやつを探しているわけではない、その時欲しい人材、使える者、相性の合う者を探してる」と。これはうまい具合に世の中の劇場の採用基準を一言でまとめた言い方だと思う。次に例をいくつか上げてみる。


まず分かりやすいのが歌手である。例えば、重い声のドラマティックなソプラノを募集したとする。当然、それ相応の声でドラマティックに歌える者が集まって来るわけであるが、ここではたとえどんなにうまくても、声がよくても、劇場側が求めるそれでなければ対象外となってしまう。もちろん招待する時点である程度書類や音源による審査はしているであろうが、いずれにせよまず明らかなのは、その時その劇場が求めているものにどれだけはまるかはまらないか、まずはこれで審査されるわけである。さらに、最終的に数名がそれにはまったとしよう。甲乙つけがたい場合、最後はやはりその受験者のキャラクター等がその劇場に合うかどうかとなってくるであろう。うまくても、チームとして仕事できるかどうか、それがうまくできる可能性がない者は決して通らないわけである。その辺で最後の数人から一番適任と思われるものが採用されるであろう。


次にオーケストラ団員でる。弾き方、音、などから自分たちと一緒に弾く上で合いそうな者を選考して行き、やはり最後にはその中で誰が一番共同作業しやすいか、またはやりたいか、となるであろう。楽器による特徴もあるであろう。例えば弦楽器のTutti奏者であれば、まずはそのパート内でのチームプレイが大事になるであろう。が、管楽器の場合は基本常にソロである為、もちろんパート内やセクション内の都合もあるが、全体との絡み的要素がまともに最初から現れるであろう。


そして、コレペティトアと指揮者である。原理は同じである。まず劇場の音楽チームの意向や好み等があり、劇場の規模やコンセプトによりどういう演目をどの程度やるかがある。それらにより、おもしろいと思われる者が招待され、最後はやはりその中で一緒にチームとしてやりやすいものが選ばれるであろう。コレペティトアの場合はこんなところであろうが、指揮者ともなると音楽チームのみならず、劇場のオーケストラとの相性もかなり重要になる。指揮者のタイプや性格がそのオーケストラと合うかどうか、それぞれの求めてるものがどうなのか。ゆえに、劇場指揮者の採用試験では、オーケストラ団員からの票を取る場合が多い。そして最終的にIntendant(総裁)やGMDらによって決定されるわけである。


大体こんな感じであろう。そしてこれらは、ある程度知り合い、ツテ、コネなどで決まってしまうことも確かにある。その場合最重要かもしれないその相性的な部分で確かだからである。もちろん特にそういった者がいない場合、受験者の中から一番合う者を探すことになる。採用基準は大体の傾向は分かって頂けたかと思うが、実際にいつどこでどういう感じで審査が行われるか、それは行ってみないと、やってみないと分からないし、最後まで一体何だったのかということもある。受験する側としてできることは、基本的に常日頃腕を磨く、レベルをキープする、といったことぐらいしかないかもしれない。それで縁のある劇場を探し求めていくわけである。これも大事な出会い、結局はそれに尽きるかもしれない。


演奏家にとって一番大切なもの

一番大切なものとはナンセンスな言い方かもしれないが…。言うまでもなく”音楽”である。全ての演奏家、全ての音楽家がこれを基準に存在し活動しているわけである。もちろん、大切なことは他にも沢山あるが、あえて何が一番核かと言えば音楽以外の何物でもないことはわざわざ言うまでもないことである。


しかしなぜあえてこんなことを言っていると言うと、特に日本においてよくあることだが、声楽家の多くは、一番大切なのは”声”だと言う人が異常に多いからである。声楽は器楽奏者の楽器にあたる部分、すなわち声を作る作業から入る。まずはこれにものすごく時間を要する。そしてある程度のレベルでプロ歌手になっても、そのメンテナンス等は永遠に続く。そして、技術やメソードなどが大好きな日本人の声楽教育において、声を作るということが何より一番大切と言う風になってしまったようである。確かに声は大切であるし、声楽家の修行の順序としてはまず声作りからせねばどうしようもない。しかし、これで声が一番大切、まず声、となってしまうと演奏家として音楽家としての本質を見事に見失ってしまうことに気づいて頂きたい。


声とは何か?言い方はいくつかあるお思う。前述の通り、声楽家の楽器である。他にもいくつか表現はあるかもしれない。確かなのは、声楽家が音楽を伝える&表現する手段であるということ。声を使って音楽を伝えるのが声楽家である。単純に、ヴァイオリンを使ってやればヴァイオリニスト、ピアノを使ってやればピアニストである。それを少しでも高いレベルで行おうと全ての演奏家は常に鍛錬を続けるわけである。


話を戻して。声が一番大切、というのは明らかにこの核になる音楽を軸にしていない、言わば演奏家として音楽家として成り立たないことになってしまう。もちろん考え方やモチベーション的な意味で、音楽を表現するために声を維持することが大切というのは当たり前であるが、声を出すことが最大の目的でも一番大切でも決してない。以前こういう言葉をとある声楽家から聞いたことがある。「歌手は声が一番大事、気持ちよく声を出すことが音楽だ」と。これでは完全に演奏家でも音楽家でもない、残念ながらただののど自慢アマチュア歌手でしかない。まず人の声とは雑音である。訓練によって楽音として使えるようにできればその時点で音楽ができる可能性にはなるが、声そのものが音楽にはならない。それに表現等が加わらなければいけない。はっきり言って、これでは完全に自己満足である。


声を出す理由は何か?何の為に声を作って出すのか?冷静に客観的にこれらを考えれば分かることではないかと思う。何より音楽をする手段の一つである。色々な意味で声楽家は発声練習やヴォイストレーニングに長時間費やし、いつの間にか自分の中で声を出すことそのものが声楽というジャンル、さらには音楽になってしまっているという現実が残念ながらものすごく多いわけである。こういう言い方をすると一方的に思われるかもしれないが、自分は元々声楽科出身である。少なくとも日本の音大を出るまでは声楽家の方々と同じことを同じようにやってきて、声の大切さも難しさも充分に理解した上で言っているわけである。そして今、指揮者として、コレペティトアとして、声楽家というジャンルを考えた時、このようなことを強く思ったというわけである。決して素人の意見ではない。


変な言い方だが、声楽家が声が一番大切と言うのを無理やり指揮者に置き換えると、指揮棒が一番大切ということになってしまう。器楽奏者に置き換えると、楽器が一番大切ということになってしまう。もちろん楽器は大切である。特にプロであるならばやはりそれなりのものを買い求めねばいけないというのは確かにある。しかしそれ以上に自分が音楽をどこまで知り、どこまで追い求めるか、それに伴い技術も知識も限りなく習得していく、というわけである。日本の技術先行教育では、声楽家の声と同様に、楽器を弾く技術が過剰に重要視され、結果一番大切な音楽、すなわち中身にあたる部分が軽視される傾向にある。声も楽器も、さらには技術も演奏する手段&方法に過ぎない。一番大切なのは音楽と言ったが、その音楽とは何か、これを知るには人生かかるわけである。それをひたすら追求し続けることこそが演奏家のつとめではないかと思う。


コレペティトアは舞台裏の人種であるが、舞台上の人種である声楽家の準備を手伝うわけである。ゆえに、演奏家ではなくても音楽家である。当然これらのことを分かってサポートすべきである。そして、難しいのは、声が一番という歌手への対処法である。正直、そういう意見の声楽家はベテランになればなるほど対応に困る。残念ながら今はまだ自分にもそれは分からない。一つ確かなのは、そういう考え方の声楽家は必ず問題点がある。なぜなら、申し訳ないが”声が一番大切”というのは三流歌手の条件になってしまうからである。自分の経験上そうだった。そういう考え方の方で一流歌手は知らない。例えば、百歩譲って、声にやたらこだわり、声だけは辛うじて綺麗、技術も悪くない。しかしそういう方はそれが最高点なため、それ以外がないか著しく欠けるわけである。となると、指揮者として、コレペティトアとして、または他の共演者と何も共同作業ができなくなり、やっても無駄になることが多い。自分はそういう経験を何度もしてきた。これには今のところ答え的なものは見つかってないが、それよりなにより、声が一番大切という声楽家をどうしたら変えれるか、減らせられるか、あるいはどう教えたら素直に育つのか、そんなことを考えてしまう。