Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

指揮者とピアノ

不思議な現実である。ヨーロッパを中心に指揮者とはピアノが弾けるというのは常識である。ヨーロッパの伝統的スタイルでは指揮者はまず劇場歌から、すなわちコレペティトアとして修業を始める。同時に指揮科に入るにもそれなりにピアノが要求される。名目上は日本で言う副科ピアノかもしれないが、しかしそも内容は極めてピアノ科に近い。もちろんピアニストを目指すわけではないのでピアノ科ほど求められるわけではないかもしれないが、いずれにせよカリキュラム的にはピアノ科に近い部分もある。そしてヨーロッパの音大では指揮科の学生が声楽や器楽の学生の伴奏をすることも頻繁にある。指揮者と言えばピアノを弾く人、むしろまずはピアノ、そんな人種である。


ところが、日本ではこれが全くない。むしろ真逆である。指揮者がピアノを弾くということに違和感を感じる方が非常に多いように思う。実際問題、ピアノを弾かない指揮者、ピノが弾けない指揮者がほとんどである。オペラの現場においても、指揮者は本指揮も副指揮も振るだけで弾かない。弾くのはピアノ科出身のピアニスト。このオペラの現場に関してはヨーロッパと特に真逆である。なぜそうなったのかは正直よく分からないが、とにかく指揮者とピアノは何かはっきりとした線が引かれている。そして指揮者はひたすら振ることを要求される。


これについて、自分の経験を書きたい。事あるごとに国内でコレペティが必要な場合、可能な限り自分で弾くようにしている。一部友人等にお願いすることもあるが、基本自分で弾いている。これにはもちろん理由がある。まず何より一番悪で能率がいいということである。テンポ等そのまま自分で弾けるし、歌手らへの指示もそのままダイレクト。誰か一人(ピアニスト)を通して行うと、時と場合にもよるし人にもよるが、うまくいかないこと、簡単に行かないこと、困難を極めることがよくある。特にピアノ科出身の方はオペラや指揮に関する教育を受けてこられてないので、よほど別途にちゃんと学ばれた方でないと基本的に難しい。それゆえに、自分で弾くと練習が一番やりやすく、音楽作りが一番うまく行くことは言うまでもない。これらが自分で弾く(弾きたい)一番大きな理由である。もう一つは、個人的に思うところだが、コレペティをやる指揮者=オペラ指揮者が少ない日本において、自分が実践することで何かしら役に立てればと思うと同時に、地味でも少しずつ知ってもらって広がってくれればというのがある。


これまでに何度か自らコレペティをして本番を振った公演があり、それらはありがたいことに成功してきている。しかしそんな中何人の歌手から言われたことがある。それは「指揮者にはやっぱり振って欲しい、振ってもらった方が分かりやすい」というものである。よく言うならば指揮者としての自分への評価とも取れるのでそこは感謝すべき点かもしれない。しかしこの考え方や見方は基本的には残念な現実である。と言うのは、振ってもらった方が分かりやすいと言うのは、実は人任せな部分が多いからである。例えば、テンポ、リズム、入りのタイミング、フレージング等、確かに振った方が目に見えて分かりやすいのは事実かもしれない。しかしコレペティをする具体的狙いは、それらを歌手と作り上げ歌手に実践する準備をするためである。しかし、そのような発言をするということは、その大事な作業に気づいていない、分かっていないということになる。確かに日本のオペラ界ではまだまだ知られていないやり方でもあるから違和感はあるかもしれないし、そもそも歌手とはその言う意味で不安を常に抱えている人種である。しかしながら、自分の経験上そのやり方で何公演も成功させてきていて、立派に歌い切って下さった歌手は何人もいる。ある意味自分のコレペティで至らなかった部分もあったのかもしれないが、それはそれで自分の課題として、指揮者&コレペティトアとしてそういう方々へ是非伝えたいのは、指揮に頼るのではなく、歌手自身が音楽を理解し掴んで自発的に自分の意志で持って歌えるようにという方向に行って頂きたい、その為のコレペティであるということ。声楽家の多くはこのように良くも悪くも頼ろうとしてしまう部分がある。これは指揮者やコレペティトアがサポ―トできる部分とそうでない部分がある。


話を戻して、お分かり頂けたと思うが、指揮者が自らピアノを弾く=コレペティをする、本当に重要なことである。これが指揮者の基礎である。オペラに興味を持つ指揮者が少ない日本ではなかなか浸透しにくい。また指揮科の少ない日本で声楽や器楽をある程度やってから指揮に転向する人もいる。その場合は確かにピアノは難しくなるかもしれない。もちろんピアノがうまい=いい指揮者ということはないが、しかし指揮者を志すならば前述の通りこの最重要基礎を避けてはもったいない。


配置

オペラ上演の場合は舞台に歌手陣、オーケストラはオーケストラピット、という風に決まっているが、演奏会形式の場合はどういった配置にするかが問題になる。ホールの構造やどの程度演出効果を出すかなどによって色々変わって来るのだが、同時にそこにその団体の市域レベルなども現れて来る。よく見てみると色々な要素がこの配置の設定の仕方にある。


ヨーロッパの場合は比較的シンプルである。一部の例外を省き、オーケストラを舞台に普通に配置して、ガラコンサートのようにオーケストラの前で歌うことが多い。あるいはオーケストラの後ろに舞台中舞台を組むこともあり、その場合はスペースがあれば少し動くこともできる。ところが日本はかなり傾向が違う。まず日本の場合は演奏会形式であっても可能な限り演出(動き)を入れることを最優先する傾向が強いので、歌手陣の動けるスペース確保を考える。それゆえに、オーケストラは結構無理やりな場所に配置されることが多い。よくあるのが、舞台上の前半分歌手陣で後ろにオーケストラ、舞台上ほぼ全部歌手陣でオーケストラは舞台の隅の一部分。このあたりが主流ではないかと思われる。


結構な違いがある。ヨーロッパのそれは完全に演奏会形式という名前そのものであるのに対して、日本の場合は演奏会形式と言っていいレベルになってるのかも危うい感じがする。それは完全にオペラの位置づけの違いにある。ヨーロッパではオペラ=音楽、日本ではオペラ=芝居、これが土台になっているということがよく分かる例である。その為、オーケストラのの扱いが変わって来るわけである。ヨーロッパでも例外的に日本のような配置にせざるを得ないこともあるが、極力避けようとしる。なぜならオーケストラの地位が悪いとコンタクトが取りずらいか下手したら取れなくなり、アンサンブルが乱れてしまう。ところが日本の場合はそれでも演技することが一番と考えられている為、音楽やアンサンブルを犠牲にしても気にならないかのようである。それでも音楽もやっているつもりなのかもしれないが、いずれにせよオペラにおける音楽への考え方が足りないのは残念ながら事実である。


一つおもしろい経験がある。自分はこれまでに日本でもヨーロッパでも何度も演奏会形式オペラを振って来ているのだが、上記の傾向の違いがもろに出ている例をあげる。まず日本では言うまでもなくオーケストラを可能な限り後や端に追いやろうとする。当然指揮者もそれに付随するため、この時点でアンサンブルをある程度無視していることにもなる。ところが大抵の主催者や歌手らはこの配置を平気で当たり前のように行って来る。これは本来指揮者&オーケストラにとって、さらにはオペラを残してくれた作曲家に対してものすごく失礼なことである。そしてヨーロッパだが、チェコでの経験である。広いギャラリーに作られた特設ステージでの演奏会形式オペラ。オーケストラも歌手も舞台上に乗る者として準備はされていたのだが、しかし正確な配置は決まっておらずその場で考えて決めて練習して本番という強引な状況であった。まあチェコではよくあることではあるのだが…。話を戻して、当然その場でどうしようかとなるわけだが、チェコ人のあるベテラン歌手が指揮者の自分の提案をして来た。2つ案があったのだが、そのうちの1つは日本では絶対にありえない発想だった。しかし一番理想的な要素を踏まえたものであった。というのは、オーケストラが前で歌手陣が後ろというものだが、状況は次の通り、イメージして頂きたい。舞台は平面、舞台後ろにはオペラのシーン(背景)を映すスクリーンがある、舞台上はぎっしりでオーケストラと歌手陣が乗るとほぼ余裕はない、こうである。そもそも限られた状況でやるしかないというわけではあるが、しかしここで歌手を後ろへという発想は日本的目線では絶対にありえないと思う。平面の舞台でオーケストラだけでもあふれるような舞台上、その後ろでスクリーンの前、歌手的には決して居心地がいいとは思えない。しかしその歌手はこの提案の理由を一言でこう言った。「その方が自分らと君としっかりコンタクト取れるだろう」と。要するにこういうことである。彼がその状況をどの程度見えて把握していたかは正確には分からないが(大してできてなかったかもしれないが)、配置を考える上であくまで指揮者とのコンタクト、すなわちアンサンブル=音楽を迷わず最優先したのである。しかも熟考の末ではなく、当たり前だろうと言わんばかりに即そう言ったのである。明らかに彼は音楽を第一に考えている。ちなみに彼はチェコを代表するベテランバス歌手である。


このように、配置というもはどうしようもない難しい状況に置かれて仕方なく決断を迫られることは確かにあるかもしれないが、根本的なオペラへの考え方や姿勢など、意識レベルが実は素直に出ているところがある。上記のチェコと日本での経験でその違いち意味を考えさせられた。ある意味変わった視点でオペラを見ているようかもしれないが、しかしこれもまたおもしろいのではと思う。


音楽と縦

変な題名だが、重要なことである。というのも、ここには大きな問題があるから。


アンサンブルの現場において音楽作り、すなわち練習する上で、縦を合わせるという作業がある。もちろんめちゃくちゃではどうしようもなく、少人数ならまだしも、ある程度の員数になると指揮者が就く。当然オペラの場合、コレペティトアもその手助けをすることになる。しかし、勘違いしてはいけない大事なことがある。特に日本の音楽現場にいてである。


縦を合わせるということは交通整理である。もちろん舞台に出るには最低限度何とかしておかねばいけないことではあるが、しかしこれと音楽作りをごっちゃにしてはいけない。音楽作りをする中で、あるいは本番の演奏の中でもだが、時としてどうしても事故が起こり縦が合わなくなることがる。本番の場合はとりあえずその場でできる範囲の対応をするしかないが、練習の場合は時間の許す限り作業可能である。その場合の時である。当然ズレたものは直せばいいのだが、しかしここからの作業で間違ってはいけないことがある。音楽練習とはあくまで音楽を作ることが最大の目的である。その過程の1つとして縦合わせというものがあるわけだが、しかしこれはあくまでその一部分であり、最大の目標では全くない。


ある巨匠指揮者がこうおっしゃた。「場合によっては、ズレてもいいから音楽を!ズレていいかと言われるとそういうわけではないかもしれないが、しかし音楽を作る上ではそれ以上に大事なことがある!」と。これには日本の現場ではおそらく多くの反論が出来るかもしれない。というのも、日本の教育や習慣の多くは軍隊から来ていていまだに目には見えないかもしれないが根強く残っている。それが固定観念、あるいは洗脳となっている。また形を何より大事にする日本では、それらを踏まえて、ズレることは一番良くない、すなわち悪いことのようになっている。何らかの理由でズレてしまった場合、そのプレイヤーは責められ、またプレイヤー自身も罪悪感を感じる。


決してズレることはいいこととは言わない。しかし、音楽を表現する上ではズレない=盾を合わせること第一、というのはよく障害になりえる。はっきり言って、ズレない完璧に縦の合った演奏でもつまらないものはかなりあるし、逆にズレたけど感動的な演奏もまたかなりある。それが音楽ではないか?プロとしてやるならば当然ある程度のレベルがないといけないわけではあるが、変な話、アマチュアの演奏でも感動的なことはよくある。プロアマ問わず、音楽かどうかで考えると、合ってつまらないより、ズレておもしろいのが音楽である。それをある程度のレベルで行うのがプロということになる。よく「ズレたら音楽にならない!」と言われる人もいるが、ぞれは音ではなく考え方がずれている。もちろん縦も合って音楽的なら言うことはないが、いざとなった場合、音楽を殺してまでも縦を合わせることに執着するのではなく、音楽をどうするかということを優先する。それこそが一流のプロの演奏家である。


今日の日本の音楽教育ではなかなかこういう方向には残念ながら行かない。音楽教育以前に日本人という民族がそうであるから、当然音楽もというわけである。しかし、最近は少しずつかもしれないが、このことに気づく人が少しずつ出てきている気もする。少しでも広がってくれればと願いたい。