Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

新しい言葉

良く言われることだが、例えば自分はドイツ語圏で勉強し仕事もしたが、今はチェコがメインになってきている。まだドイツ語圏にいた頃に周囲にチェコへ行きたいという話をすると、皆決まってこう言う。「チェコ語できないだと」とか「言葉できないから無理では」と。これにははっきり言って疑問しかない。


まず、行きたい国があれば、その国の言葉を勉強すればいい。それだけのことである。それ以外に何があるか。誰でも初めは母国語しか話せないわけで、新たに言葉を勉強し外国へ進出するわけである。上記のように言う人も、当時ドイツ語圏に留学しているか仕事しているわけで、皆ドイツ語を新たに学んで来たわけである。それなのに、なぜ今更新しく学ぶ言葉に否定的になるのか。


はっきり言って、言葉を習得すると言うのは、センスや経験等で習得の早い遅いはあるが、結局のところその気になるかならないかだけであって、できないことはあり得ない。よく言葉がいまいち習得できずに、難しかった、無理だった、という者がいるが、単にやる気がないか意識レベルが低いか足りないだけである。


今自分はチェコ語を習得中。まだまだドイツ語ほどではないが、このまま続ければ時間の問題である。これは単にチェコ語も学びたい、知りたい、しゃべりたい、それだけである。


演奏以前に…

オペラには多くの人間が関わります。例えどんなに小編成な作品でも、裏方スタッフまでいれるとそれなりの人数になります。それが劇場ともなると家族のようなチームにまります。そんな中でいかに協力し合っていくかは基本的なことです。


あるオペラプロジェクトでこのようは人がいました。主催者側のある部分が気に入らなかったらしく、言いたい放題悪口や不満を言って来て、それだけでは収まらなかったのか、さらに引き続き自分勝手な行動をとり、本来主催者の許可を得てやるべきことも全く連絡なしで勝手な判断で行う。ここまで来るとはっきり言って人として、社会人としての問題で、完全に演奏以前の問題になります。さらに言うと、その悪口や不満の内容はもはやどうでもいい2次的な話で、問題なのはその行動と言動です。そのようなことをする人は、まず確実に演奏レベルは弾くですし、その前に主催者へも周りの仲間へも全く気遣いも誠意もない、単なる個人感情だけのわがままな子供です。この時点でチームプレイ不能、ゆえにクビにすべきレベルです。しかしながら、こういう人はその永遠その悪口や不満を言い続けます。要するに話が通じない人で、人の話に耳を傾けない自己中心的人物に他なりません。できればチームを編成する時点で気づければいいですが、世の中そういうのもなかなか難し時もあります。


個人的には、こういう人はこういう人だと分かった時点で切るしかないと思います。なぜなら、チームに迷惑が掛かりプロジェクト自体が危険です。チームの為にも、さらには本人の為にも、切ることが不可欠だと思います。難しいのは、タイミング的、状況的にそれが極めて難しい時です。それでも可能な限り切る方は全てにおいて後々いいことは確か、そこでどれだけどのように努力し対応できるかが、リーダー的位置にある者の責任でしょう。


前記の通り、こういう人は確実に演奏能力低いです。強引な話、こういった問題を起こす行為は少なからずその言い訳の一種にあたります。指揮者もコレペティトアもこのような問題に直面することが多いでしょう。それを演奏の観点からどう対応するかは非常に難しい問題ですが、その理由は演奏以前にあるということがそれの一つの鍵となるでしょう。


根本的な違い

先日チェコの名門ブルノ国民劇場”ヤナーチェク・オペラ”に行って来た。演奏はなかなか、建物も初めて入ったがヨーロッパの伝統を感じる素晴らし建築、いい時間でした!


ヨーロッパの劇場に来ていつも思うこと。もちろん演奏レベルは劇場によってさまざまだが、しかし共通しているのは音楽を何より第一に考え大事にしている、そういうことがはっきりと感じられる演奏であること。そして演出、セットこそ劇場によりさまざま(プランや予算等による)とは言え、演技を自然に行おうとしている、言ってしまえば日本のオペラよりはるかに無駄がない=動こうとしていない。この時点で根本的な違いがはっきりと分かる。以下のように。


ヨーロッパ
‐ まず音楽重視で全てを作る
‐ そこに演技をプラスアルファ―で仕上げる


日本
‐ 何より演技が重要でそれですべてを作ろうとする(無理矢理芝居化する)
‐ 最後にそこに音楽を添える(なぞる)


である。


具体的に言うと、ヨーロッパではオペラは舞台作品である以前に音楽作品である。ゆえに音楽で全てを作り、そこに演技をプラスアルファ―することで舞台作品にする。それに対して日本は、この音楽にあたる部分はあくまで楽譜をなぞって覚えるだけ、さらに言うならば声=発声の技術こそが音楽だとされているようである。そして全てを演技で作ろうとし、オペラという本来音楽作品を無理矢理芝居にしてしまおうとしている。それにより無理が来ている。


まず音楽について。基本的にオペラも楽譜にほとんどのことが書かれていて、そこから読み取るのである。これはどんな音楽でも同じだが、オペラも決して例外ではないどころかむしろその要素が一番強い。言わば音楽の究極がオペラである。ゆえに解釈、表現等ももちろん全て音楽で行われるわけで、ヨーロッパではまずこれがすごい!ゆえに指揮者以前にコレペティトアが立ち会い徹底的に練習する。しかし日本のオペラはこれが欠落している。ゆえにコレペティトアは仕事がない。正確に言えば必要とされていない。なぜならそこまで音楽を重要視していない=必要と思っていないからである。


演技について。ヨーロッパでは音楽で作ったものに、演出家が付けた演技をプラスアルファ―することで音楽作品→舞台作品と仕上げるわけである。しかし日本は、順番としては先に音楽練習をするものの、それはあくまで書いてある音の確認に過ぎず、その後演技で全てを作ろうとしてしまう。ゆえにこの時点で音楽作品ではなく芝居に無理矢理してしまっている。そしてその芝居に先に打ち合わせた?音楽をそえるだけである。結果芝居の出来損ないになり、オペラでは全くない。


そもそもなぜ日本でオペラ=芝居となったのかは実は謎である。ヨーロッパのどこのどんなオペラを見ても演技主導ではないし、なぜ皆それに気づかないのか。確かに、思い込みや洗脳で、日本のその理解で見ればどこのオペラでも同じ年か思えないのかもしれないが、本場はヨーロッパであることを忘れてはならない。日本でオペラを芝居とする理由、これが本気でそう思い込んでいる=信じている、もしくは本当は違うと分かっていてもどうしても芝居としてやりたいからと聞く耳持たず押し通しているのかは分からないが、しかし日本のオペラ=芝居はあまりに強烈である。ヨーロッパのその伝統よりも強いこだわりである。多くのオペラ関係者とオペラの話をするとほとんどが芝居の話しかしない。それならばなぜオペラを辞めて芝居に行かないのか不思議で仕方ないが、その前にオペラ指揮者にそういう話し方をする時点でオペラを分かっていないというわけであるし問題である。最近思うのが、ズバリ言うならば、比べて言えば日本とヨーロッパのオペラは全く違く事をやっている、すなわち音楽と芝居である。ヨーロッパを基準に言うならば、ヨーロッパがプロで日本はアマである。サッカーに例えるなら、ヨーロッパの5大リーグと日本のサッカーサークルのように。そう考えると理解と納得がいくわけであるが、しかし悲しくも不思議な現実である。日本でオペラに出ている方々は、それゆえにほとんどが音楽ではなく芝居をしたい人達である。もちろん中には音楽にもちゃんと意識を持っている方もいるが、しかしヨーロッパの音楽重視で演技もしっかりやるというタイプの歌手はまず見ない。そういった人材の育成も必要と思うが、しかし今の日本のオペラの現実(無理矢理芝居としてやるオペラ)では逆にそういった人材は必要ないし、歌手のみならず指揮者もコレペティトアも必要ないというわけである。


ヨーロッパの劇場に行くといつもこのようなことを考えてしまう。見た瞬間あまりに明らかな現実だが、しかし…、である。そういう意味では島国の日本はまだ閉ざされているのかもしれない。日本ではオペラは演出の時代とさえ、世界的にそうなっていると言われているが、全然違う。それはあくまで日本人の考えと希望でしかない。さらに言うならば、ヨーロッパでは演出の時代が来たのではなく、音楽(指揮者)のレベルが落ちた結果演出方面に視点が行ってしまったというのが正確であろう。これはこれで問題ではあるが。話を戻して、いつの日か日本にも本物のオペラ=音楽としてのオペラが認知される日が来て欲しいと切に願う。