Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

ルサルカ

今日は宣伝をさせて頂きます!


2013年より振らせて頂いております東京のプロの室内オケのバウムクーヘン室内管弦楽団(KPB)にて、この度A.ドヴォジャーク”ルサルカ”をやることになりました。つきましては、以下の通りオーディションが行われます。ご興味ある方は是非お気軽にお問合せ下さい。



ルサルカは思い入れの作品です!昨夏本場チェコにて振らせて頂きましたが、それがチェコ国内における日本人初ルサルカ指揮となりました。光栄なことです!今回それを日本へ持ってくることになりますが、昨夏のその公演にも乗っていたチェコで特に親交の深い元チェコフィルコントラバス奏者がゲストとしてオケに客演します。日本でもまたルサルカを彼と一緒にできるのは大きな喜びですw


それゆえに、普段チェコで行われているルサルカの演奏、本場直輸入の音楽を日本で披露することを目的に仲間と共同作業したいと思っております。今の自分にできる最高の公演を目指します!


というわけで、まずはオーディションです。KPBはプロからプロ志望まで、経験を積みたい方々へ経験の場を提供すべく活動する団体です。ゆえにオーディションでは、単にうまいとか、完成度が高いとか、では選びません。オーディションでは、音楽的にもチーム的にも可能性のある方を選びたいと思っております。レパートリー拡大を目指すプロのかたから実践的勉強がしたい学生&若手まで、たくさんの応募をお待ちしております♪


最低必須条件

演奏家として世に出るために、国や地域によっては最低必須条件が存在する。多かれ少なかれどこにでも何かしらあるのかもしれないが、頑なにそれにこだわるところがある。かつて留学時代、韓国人の仲間が皆過剰に”Master”修了にこだわっているのを見た。これは要は大学院修了ということだが、韓国人らがあまりにそれに強烈にこだわるのである時仲のいい韓国人に聞いて見ると、「これは韓国では最低限度必須なんだ」とのこと。そうでなけえば韓国ではその道の者として認められないと言う。アジア独特の古い保守的なものかと思った。韓国のそれほどではないかもしれないが、日本でも確かに”ちゃんとす津行する”ということにはうるさいおころがある。その類だろうと当時は思っていた。


近年色々経験して知ったことだが、そういった最低必須条件が存在するところがいくつかある。まずは学生時代に聞いた話だが、ロシア方面のある地域では、卒業資格がないとプロ団体と契約できないという。また最近知った話だが、ハンガリーでは韓国のそれと同様修士がないと、まずプロ団体のオーディション等が受けられないとのこと。もちろん世界には色々な人種とその考え方があり、これまで多くの人種と接してきてそのことはよく知っている。しかしこの修士が必須等は正直理解できないところがある。修士必須の考え方は、そこまでやっていれば最低限度プロとしての能力は兼ね備えたであろうということである。単純に、どこの学閥にも属さずどこで何して来たか分からない志願者より受け入れ側としては安全と思うのであろう。それは確かに分からなくもない。とにかく人数が多いこの時代、採用枠は限られるので、まずそこで振り落としたいのは当然であろう。しかしそんな中にも隠れた才能がある可能性だって充分ある。さらに言うなら、修士を持っていても使い物にならない者は相当数いる。むしろ修士があって使える人の方がごく限られている。簡単な話で、学校で成績優秀な者が本当に頭のいい人間なわけでもなく人として立派ではないのと同じで、修士資格があるからと言って優秀な演奏家ということは全くない。経験上、実力もつかないままだらだらとわけもなく必要だからと思い込み修士課程を修了するまで学校にい続ける学生はかなり多い。逆に、実際に自分も何人か知ってるが、本当に実力ある者は、何らかのタイミングでチャンスをつかみ、退学して仕事するというわけである。こういう者は本当にかっこいいと思う。


話は変わって、日本はと言うと。日本も確かに卒業にはうるさいが、最近はかつてよりも緩くなってきているように思う。ましてや韓国のそれよりかははるかに緩い。しかしそれより何より、日本では”コンクール”である。これは自分が経験した限り、そこの国のどんな必須条件よりも強烈である。結果、日本の音楽教育はコンクールの為だけになっきて、純粋にいい音楽を、ではない。さらには、コンクールに簡単に通る=天性の才能を持った者(天才)、そういう人種しか相手にしなくなっている。これはヨーロッパの徹底した音楽教育とは全然違う。そして自分の専門分の指揮、これは特にコンクールが強烈である。コンクールさえ通れば実力に関係なく仕事が来るところがある。反面、どんなに実力があってもコンクールに通ってなければ門前払いである。実際問題、コンクール=実力ではない、むしろ真逆である。しかし聞いた話、事務局やマネジメントやメディア側あkらすると、やはり売れないと意味がないわけで、コンクール入賞者の指揮者を採用しようと言うわけである。修士のそれと理屈は同じであろう。確かにコンクール崇拝者の多い日本では妥当な方法かもしれない。しかし本当にそれだけであろうか。一般のファンの方々でも、コンクールしか信用しない人もたしかにいるかもしれないが、そうではない純粋にいい音楽を求めいい演奏家に出会いたいという人も近頃少なくないと思う。自分のように日本ではマイナーなオペラ指揮者というジャンルは基本コンクール系とは無縁で日本では確かに出て行きにくい人種ではあるが、しかしそういった純粋に喜んで下さる方々に出会うことも最近ちょくちょくある。そんな時思うのが、そんな方々の為に一生懸命演奏したという純粋な音楽家の原点である。本来音楽とはそういうものであり、コンクールや学歴でどうこうできるものではない。正直、そういった最低必須条件は、実は音楽そのものにおいては実にくだらない何の役にも立たないものである。


しかしながら、今日のそういった流れは仕方のないこと、時代とでも言おうか、人間社会ゆえにとでも言おうか。そんな中でも、せめて自分だけは決死て音楽の本質、喜んで下さる方々へ音楽を伝えたいと言う希望、そういった本当に大切なものを忘れずいようと思う。ある尊敬する先生(マエストロ)が自分にかつてこう言われた。「本当にいい音楽があってやってる人は、いつかどこかで認められていくものだと思うけどなあ」と。そうあるべきであるし、そう信じたい。道は長く険しくても、耐えて乗り越えてそこに向かって進み続けることが、音楽家としても人としても、それこそが真の強さである。


言葉の必要性

言うまでもなく、オペラ歌手にとっては言葉は必要である。言葉を扱う演奏家であるから、意味も分からず歌うと言うことはあり得ないし許されない。もしそうしたとしたら、それはただのカラオケで演奏でも芸術でもない。


しかし、自分の知る限り日本の一部の声楽家はこのことを知らなかったり否定したりする。恐らくそれは古いタイプでそこまでの教育を受けてないか、あるいは単に意識レベル等が極端低すぎるか、などであろう。そもそも言葉を直接使う声楽で言葉が必要ないという考えにはならないと思うのだが、不思議とそう言う人がいる。とは言え、声楽どころか音楽事態素人の一般人でも、「声楽は言葉を使う(歌う)わけだから言葉一番大事でしょ!」と言う人も実は結構いる。ゆえに、声楽を多少たりともかじっているいる人が言葉必要ない(関係ない)発言をするというのは単に大恥である。


コレペティトアの採用試験では、オペラのヴォーカルスコアの弾き語りがメインである。9割これで、後は劇場によってはピアノソナタ等の一部分や初見等があるが、一番大事とされるのは弾き語りである。言うまでもなく、言葉を扱う専門家の声楽家=オペラ歌手に指示を与えサポートするためである。


しかし大問題な例外もある。近頃オペラの下積み経験のないコンクール系指揮者がいきなり劇場指揮者になる時代になって来た。そういった指揮者は言葉の必要性を心得てない場合が多く、仮に心得ていたとしてもその意味ややり方を知らず、いい加減になったり、酷い場合は一切言葉を読まずにオペラを振っている者も少なくない。言葉がちゃんとはいっているか、どの程度読んでいるか読んでいないか、そういうのは見る人が見ればすぐに分かる。それに共演する歌手やプレイヤーは言葉を読んでない指揮者の場合明らかに即演奏が変わる。本来指揮者が言葉を読んでくることは当たり前というか必要不可欠であるが、そういった常識さえ覆って来ている時代かもしれない。


やはり本来あるべき姿は、多かれ少なかれ最低限度コレペティトア、もしくはアシスタントとしてオペラの現場にある程度の時間携わり下積み経験を積み、その後にぼちぼちオペラを指揮し始める、特にこれから時代改めて見直して実践すべき最重要事項である。そして当然オペラ歌手も、地道に言葉の理解につとめ続けるべきである。