Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

演奏家にとって一番大切なもの

一番大切なものとはナンセンスな言い方かもしれないが…。言うまでもなく”音楽”である。全ての演奏家、全ての音楽家がこれを基準に存在し活動しているわけである。もちろん、大切なことは他にも沢山あるが、あえて何が一番核かと言えば音楽以外の何物でもないことはわざわざ言うまでもないことである。


しかしなぜあえてこんなことを言っていると言うと、特に日本においてよくあることだが、声楽家の多くは、一番大切なのは”声”だと言う人が異常に多いからである。声楽は器楽奏者の楽器にあたる部分、すなわち声を作る作業から入る。まずはこれにものすごく時間を要する。そしてある程度のレベルでプロ歌手になっても、そのメンテナンス等は永遠に続く。そして、技術やメソードなどが大好きな日本人の声楽教育において、声を作るということが何より一番大切と言う風になってしまったようである。確かに声は大切であるし、声楽家の修行の順序としてはまず声作りからせねばどうしようもない。しかし、これで声が一番大切、まず声、となってしまうと演奏家として音楽家としての本質を見事に見失ってしまうことに気づいて頂きたい。


声とは何か?言い方はいくつかあるお思う。前述の通り、声楽家の楽器である。他にもいくつか表現はあるかもしれない。確かなのは、声楽家が音楽を伝える&表現する手段であるということ。声を使って音楽を伝えるのが声楽家である。単純に、ヴァイオリンを使ってやればヴァイオリニスト、ピアノを使ってやればピアニストである。それを少しでも高いレベルで行おうと全ての演奏家は常に鍛錬を続けるわけである。


話を戻して。声が一番大切、というのは明らかにこの核になる音楽を軸にしていない、言わば演奏家として音楽家として成り立たないことになってしまう。もちろん考え方やモチベーション的な意味で、音楽を表現するために声を維持することが大切というのは当たり前であるが、声を出すことが最大の目的でも一番大切でも決してない。以前こういう言葉をとある声楽家から聞いたことがある。「歌手は声が一番大事、気持ちよく声を出すことが音楽だ」と。これでは完全に演奏家でも音楽家でもない、残念ながらただののど自慢アマチュア歌手でしかない。まず人の声とは雑音である。訓練によって楽音として使えるようにできればその時点で音楽ができる可能性にはなるが、声そのものが音楽にはならない。それに表現等が加わらなければいけない。はっきり言って、これでは完全に自己満足である。


声を出す理由は何か?何の為に声を作って出すのか?冷静に客観的にこれらを考えれば分かることではないかと思う。何より音楽をする手段の一つである。色々な意味で声楽家は発声練習やヴォイストレーニングに長時間費やし、いつの間にか自分の中で声を出すことそのものが声楽というジャンル、さらには音楽になってしまっているという現実が残念ながらものすごく多いわけである。こういう言い方をすると一方的に思われるかもしれないが、自分は元々声楽科出身である。少なくとも日本の音大を出るまでは声楽家の方々と同じことを同じようにやってきて、声の大切さも難しさも充分に理解した上で言っているわけである。そして今、指揮者として、コレペティトアとして、声楽家というジャンルを考えた時、このようなことを強く思ったというわけである。決して素人の意見ではない。


変な言い方だが、声楽家が声が一番大切と言うのを無理やり指揮者に置き換えると、指揮棒が一番大切ということになってしまう。器楽奏者に置き換えると、楽器が一番大切ということになってしまう。もちろん楽器は大切である。特にプロであるならばやはりそれなりのものを買い求めねばいけないというのは確かにある。しかしそれ以上に自分が音楽をどこまで知り、どこまで追い求めるか、それに伴い技術も知識も限りなく習得していく、というわけである。日本の技術先行教育では、声楽家の声と同様に、楽器を弾く技術が過剰に重要視され、結果一番大切な音楽、すなわち中身にあたる部分が軽視される傾向にある。声も楽器も、さらには技術も演奏する手段&方法に過ぎない。一番大切なのは音楽と言ったが、その音楽とは何か、これを知るには人生かかるわけである。それをひたすら追求し続けることこそが演奏家のつとめではないかと思う。


コレペティトアは舞台裏の人種であるが、舞台上の人種である声楽家の準備を手伝うわけである。ゆえに、演奏家ではなくても音楽家である。当然これらのことを分かってサポートすべきである。そして、難しいのは、声が一番という歌手への対処法である。正直、そういう意見の声楽家はベテランになればなるほど対応に困る。残念ながら今はまだ自分にもそれは分からない。一つ確かなのは、そういう考え方の声楽家は必ず問題点がある。なぜなら、申し訳ないが”声が一番大切”というのは三流歌手の条件になってしまうからである。自分の経験上そうだった。そういう考え方の方で一流歌手は知らない。例えば、百歩譲って、声にやたらこだわり、声だけは辛うじて綺麗、技術も悪くない。しかしそういう方はそれが最高点なため、それ以外がないか著しく欠けるわけである。となると、指揮者として、コレペティトアとして、または他の共演者と何も共同作業ができなくなり、やっても無駄になることが多い。自分はそういう経験を何度もしてきた。これには今のところ答え的なものは見つかってないが、それよりなにより、声が一番大切という声楽家をどうしたら変えれるか、減らせられるか、あるいはどう教えたら素直に育つのか、そんなことを考えてしまう。



演出について

指揮者&コレペティトアは劇場においてあくまで音楽を作るのが仕事、演出に関して口出しすることはありえない。まず専門外で我々には当然演出をするノウハウもなければするつもりもない。唯一意見を述べるべき時は、もしも演出が音楽を邪魔したら、である。これは立場上責任もって言うべきだが、それ以外は基本的に別分野の話である。音楽をまとめる指揮者、動きをつける演出家、この両者がバランスよく機能して良いオペラ公演ができるのである。


オペラとは総合芸術、もちろん芝居的要素はある。しかし根本的にオペラは音楽が土台になっていて、音楽が全てを支配してると言える。芝居的要素がどれだけ大事とは言っても、やはり音楽の流れに沿ってすべては展開されるわけである。オペラとはそういうものである。ゆえに、何だかんだ言いながら結局は音楽主体にせねばオペラはできないというわけである。その辺で、指揮者も演出家もそれぞれの役割をわきまえてやるべきである。これはヨーロッパでは長い歴史と伝統がそうなっており、今更いうまでもないことである。


しかしながら、それゆえに、中には演技を過剰に主張する演出家が近頃よく現れている。オペラを芝居のようにしたい演出家は沢山いる。また演出家がどれだけ音楽を分かってやっているかが大事である。音楽を分かってない演出家が劇場の総裁になろうものなら、その劇場のプロダクションはたちまち音楽レベルが落ちる=オペラが壊れるというわけである。実は近年、世界的劇場でもこのような現象が起こっている。それにより色々と大問題が起こっている。本場ヨーロッパでそれが起こるとは悲しい話である。同時にオペラをちゃんと分かってない人が増えてきているという現実でもある。これは何も演出家だけでなく指揮者やコレペティトアにも言えることである。なぜなら、時間をかけて下積みをした者ではなくオペラの現場経験のないコンクール指揮者が劇場専属指揮者になるケースが増えてきているからである。


話を戻して。オペラとは作曲家が残した音楽である。それを舞台化するのが演出家である。プログラム等には、例えばモーツァルトの”フィガロの結婚”と書く。ダ・ポンテの”フィガロの結婚”とは決して書かない。もちろんその後台本者のところにはダ・ポンテの名は書かれるが、まず表向きに出るタイトルとしては他ならぬ作曲家である。作曲家こそがオペラの存在を確かにした者であり、その作られた音楽ことがオペラの核である。そして、プログラム等には、よほどの例外がない限りまず指揮者の名前が書かれ、続いて演出家である。ところが、近年日本では逆のことが極めて多い。これは非常に残念なことである。日本ではオペラは芝居で音楽はおまけとなってしまっているが、これではいつまでたってもオペラにならないしレベルも上がらない。今一度オペラとは何か、謙虚に知るべきだと思う。と、その前に、本来それを誰よりも早く知り伝えるべきは指揮者でありコレペティトアではないだろうか。しかしながら、現在日本のオペラ界では指揮者とコレペティトアの立場は非常に弱い。もうこうなっては何をどうしていいのか、何がどうなってこうなったのか、よく分からない難しい話である。


決して演出家と演出効果を不定するわけではない。うまく機能すればそれがオペラ上演をさらに高いものにすることは充分に分かっている。しかし、最近演出が過剰になりすぎて音楽がそっちのけになっているケースが世界的に多く、日本では極めて固まった伝統になってしまっている。指揮者もコレペティトアも演出家も、もちろん歌手も、オペラ人は皆この現実を受け止め謙虚に取り組むべきだと強く感じる。


一流歌手

昨夜久しぶりにプラハ国民劇場へ行って来た。A.ドヴォジャーク”Jakobin”というオペラ、チェコでは有名な作品である。急に思い立って行って来た。公演はなかなかおもしろく、実は初めて聴いたのだが、ドヴォジャークらしいボヘミアンなきれいな音楽だった。で、今夏チェコで振った同じくドヴォジャークの”ルサルカ”で共演したテノール歌手が出演していた。彼はチェコを代表するテノール歌手の1人で、もちろん演奏は超一級品である!


近年思っていたことがある。それは、世界の一流劇場で歌う第一線の一流歌手と共演してみたい、である。というのも、そのぐらいのレベルの歌手とは一体どんなものなのか、お互いどのようにできるのだろうか、純粋にそう思ったからである。で、今夏チェコでそれが現実のものとなった。その”ルサルカ”の公演である。チェコを代表する国民的オペラの”ルサルカ”を外人がしかもチェコ国内で振る、普通なら許されないことである。しかし色々あって、運よくそのチャンスを得ることができた。もちろん、日本人指揮者が”ルサルカ”をチェコ国内で指揮したのは歴史上初である。この公演は音楽祭のメインイベントとして行われたのだが、歌手陣は1人中国人がいたが、後は皆チェコ人。オケもチェコフィルを筆頭にプラハ国立歌劇場、プラハ国民劇場、プラハ交響楽団の主要メンバーが中心になり、そこに音楽祭のオーケストラアカデミー受講生が乗るという豪華なものであった。そして歌手の主要メンバーが、プラハ国民劇場&プラハ国立歌劇場を筆頭にチェコの歌劇場で常に主役級を歌う一流歌手陣だった。


彼らとの共演は刺激的で、全てにおいて過去最高な体験だった。特に前述のテノール歌手はチェコでかなり有名な方で、某脇役のチェコ人歌手が練習前にビビっていたぐらいである。彼は表現力も声も素晴らしいのだが、歌手にしては破格にソルフェージュ力がすごかった。自分が受け持つパートは完璧に準備できていて指揮者から言うことはないと言ってもいいぐらい。また自分のパートへの責任感が強く、常に完璧なまでに見事なのだが、練習の時に1回だけ間違えた時、後の休憩時間にものすごく紳士的に謝って来た。そして、こちらからの注文はほとんど一度で完璧にクリアする。また自分の意思表示がはっきりしっかりしているので、何をどう歌いたいか、テンポからフレージングまでがよく分かる。指揮者が一方的にテンポを作るのではなく、まさに共演である!本当に高いレベルでのアンサンブルができた。誰が何と言おうと超一流歌手である。彼と練習していて、これこそが自分が求めていた世界的一流歌手との共演だと確信した。


コレペティの現場では、この一流歌手が普通にやりこなすことを細かく全部練習せねばならないことがよくある。もちろんそのれがコレペティトアの仕事だと言われればそれまでかもしれないが、しかし極論かもしれないが、歌手は本来このテノール歌手のようにできるのが理想であり、多くの歌手たちが基本的には目指しているはずである。しかしそれがどうにも難しく、なかなか実践できていないというのがほとんどであろう。指揮者の自分が彼との共演で刺激を受けたように、歌手同士でもこうした一流の方と共演する機会があるならば、それは間違えなく貴重な経験になるはずである。CDや演奏会だけではなく、こうした接点を持てる機会を少しでも多くの方々に求めて頂きたいと強く思う。もちろんそれはなかなか叶わない現実もあるかもしれない、しかし求めれば何とかなるというところもある。


昨夜彼の演奏を聴きながら、ルサルカの時のことを思い出しつつ、また来るであろう共演の機会が待ち遠しくなったのであった。日本から来た見知らぬ指揮者がいきなり自分の国の最高のオペラを振る、正直なめられても仕方ないようなレベルの話であったが、彼らチェコの一流の歌手陣達はしっかり向き合い、そして一緒にルサルカを演奏できた。一流の演奏家とは、同じ音楽をする仲間を純粋に謙虚に認め合い、高め合う、そういう人のことを言うのだと思う。