Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

時代は変わった…

最近色々な状況を目の当たりにしたり経験したり、または話を聞いたり、そこから分かって来た時代の移り変わりである。これは歴史的なこととも言えると思う。


それは何かというと、ドイツ語圏の劇場の在り方である。具体的に言うと、指揮者&コレペティトアの在り方、すなわちこれらがどういう人種か、何が求められるか、どういう者が適正とされているか、などである。またそれにより、オペラ界全体が影響を受けることは言うまでもない。結論から言うと、本来これには伝統的なスタイルややり方などが文化のごとく存在していたわけだが、色々な経緯や状況により大きく変わって来たということであり、それによりドイツ語圏のオペラ界のレベル低下が急速に進みつつあるということである。そしてドイツ語圏のオペラ界は世界のオペラ界の中心と言える場所であり、どれがレベル低下すると当然世界的にレベル低下が起こると言うものである。


具体的な内容であるが、元来古き良き伝統であったスタイル、指揮者はまず劇場のコレペティトアやアシスタントとして長年下積みをし、後に指揮者に昇格していく。そしてまずはオペラ指揮者として大成し、そのれからシンフォニーも。これが一流指揮者を作る基本であったわけである。事実、歴史に名を残している名指揮者は皆これであり、別の伝統のあるドイツ語圏以外でも、歴史的指揮者は皆オペラ指揮者としてそれなりの経験と実力を持っている。要するに、オペラは指揮者の基礎であり、ドイツ語圏は歴史的にそれが一番強く根付いていた、言わば世界のオペラの基礎と言える地域であった。しかし、今の時代その最大の長所と言っても過言ではないその特徴がかなり失われてきている。まだゼロとまでは言わないかもしれないが、限りなくそれに近づき、またこれからの若い世代はすでにそこに視点はほぼない。


今世紀に入り、指揮者界もコンクールの時代に入って来ている。指揮者コンクールとは、早い話が一攫千金的なもので、そこでうまくいけばそのまま下積みなくデビューというわけである。特にここ10年ぐらいでその数は増え、挙句の果てには、下積みのないコンクール指揮者がいきなり劇場専属指揮者になるということが最近結構普通になってきた。コレペティトアとしての下積みがないということは、要はオペラを知らないと言うことである。知らないだけならまだしも、間違った理解や別の理解をしている場合も多い。そして、コレペティトアはというと、元来指揮者が最初に下積みでなるものであったが、近頃はコレペティだけがしたい専任コレペティが増えてきている。要するに、指揮者より極めてピアニスト的になってきたと言うわけである。それでいて志望者が多い今の時代、試験ではオペラのことよりピアにスティックなことが求められる傾向が強まってきている。これはオペラを視点言うならば残念なことで、ある意味間違ってきている。そんなこんなで、結果的にドイツ語圏の良き伝統のコレペティトア→指揮者というものがほぼなくなってきている。そしてそういった指揮者が増えると言うことは、そのまま歴史が変わることになる。なぜなら、その次の指揮者を選ぶのは現職の指揮者、当然自分の好きな似た傾向の者を選ぶことになる。ゆえに、かなりコンクール指揮者系が浸透してきたということは、これからは確実にそういう指揮者しか採用されなくなるということである。特に今まだ微妙に残る職人的ベテランオペラ指揮者が引退後、このままだと確実に歴史は変えられてしまうわけである。そして同様に、コレペティトアも指揮者ではなくピアニスト的になり、オペラを支える最重要役職と言えるコレペティトアのレベルも著しく低下すると言うことになる。


それらの傾向が具体的にどういうものかというと、簡単に書くとこういうことである。指揮者は、明らかに技術的、理論的、メトロノーム的で、そしてコンクールのごとく短時間に形だけまとめる方向、これらが強くなり、歌手との共同作業やオペラの音楽の奥深いところが限りなう薄れていく。これらは長年の経験によって培われるものであるが、コンクール系出身の指揮者やコレペティトアとしての下積みのない指揮者はこれらを学ぶ機会も時間も皆無である。そういう人種が今、そしてこれからのオペラ界を仕切っていくことになるわけである。コレペティトアは、指揮者的要素がなくなる、要するにピアにスティックになり、オペラのアンサンブルというよりメトロノーム的でより理論的になると言うわけである。一見指揮者ほど影響は少ないようにも思われるが、しかしこれまでよりかは薄く浅くなるわけで、指揮者的要素の低下=アンサンブル的要素の低下と言える。また採用試験時にはアンサンブルやオペラに対する理解とその対応が本来大事なのに、それらが求められなくなるということは、単にオペラ人としてのレベル低下ということになる。


というわけで、今後はこういうことが予想される。


オペラ指揮者がオペラを知らない人がなるようになって来た

オペラやオペラ指揮が違ったものになりレベル低下

引く続きその流れで新オペラ指揮者が育成&発掘される


である。


元々指揮者という人種は、根本的に理論や技術が好きで、音楽や人間より自分のペースで仕切っていくことが好きな者が多く、それを正義感のごとく推し進める傾向の強い人種である。それゆえに常にプレイヤーや歌手との対立や溝が多く存在するわけだが、そういうのはもっと指揮者がプレイヤーや歌手に耳を傾け、理解し対応すべきである。しかしこのオペラ界の傾向から考えると、かなり指揮者ら本位な世界になって気いる。となると悪く言うならば、オケや歌手もその指揮者らの洗脳に合い、どんどん違う者になっていく可能性が高いわけである。やはり指揮者とは影響力の強い人種であることには変わりないし、ヨーロッパオペラ界ではやはり指揮者という存在はかなり強いわけである。まあコレペティトアもこの傾向で行くならば、歌手を理解し支えられる者が減っていくと、結果指揮者と共に音楽チームの機能性が低下し、そのまま歌手のレベル低下となる。


今世界中で指揮者コンクール、指揮マスタークラス等、このような傾向をさらに強い勢いで持って推し進めていく力がどんどん増え続けている現状である。ある意味、あまりに増え続けるとどこかで飽和状態となり減少につながることもあるが、残念ながら今のところそういう空気は見られない。もちろん未来のことは誰にも分からないが、事実なのはすでにこの流れにオペラ界は少なからず巻き込まれていてレベルが下がってきていることである。そして伝統的なスタイルで純粋に地道に勉強している指揮者やコレペティトアはすでに通用しなくなってきている。そこまで変わって来ていると言うのが現実である。今はとにかく、どこかでブレーキがかかり、良き伝統が少しでも戻って欲しいと願うばかりである。もちろん悪い伝統はいいものに変えて行けばいいし、良いものを残して受け継いでいけばいいわけである。しかし、これも時代の流れと言えばそれまでなのかもしれないが…。恐らく今世界中で、指揮者らは指揮者のレベルは今上がて来ていると思い込んでいるかもしれない。しかしそれが一番恐ろしい間違えである。指揮者にレベルは今確実に落ちてきている。そえに比例しえオペラのレベルも落ちてきている。オペラをちゃんと分かっているオペラ指揮者、一人でも多く存在し続けることが今とこれからにとって一番大事だと強く思う。


何かが違う

最近何人かの色んなタイプの指揮者を見ました。学生レベルからそれなりのプロまで、またマスタークラスのレッスンから公の公演まで。それらから色々なことを感じ色々なことを考えていましたが…。


近頃世界的に指揮者のレベルがどんどん落ちているように思います。最近の指揮者がやってることは何かが違うんです。いや、違って来てるんです。レッスンを見ていても、公演指揮を見ていても、本来やるべき音楽から段々外れて行っているような。


指揮者に限らず、全演奏家に共通していること、それは何より音楽が最重要ということ。これをやるために皆それぞれの手段(楽器や声など)で技術を学んでるわけです。目的はあくまで音楽を演奏するためであり、技術が一番大事なわけではありません。それが音楽にならなければ意味がないわけです。指揮に例えて言うなら、棒を振ることも、プレイヤー達をまとめることも、すべて音楽をするためのものであり、それそのものが目的ではないはずです。しかし多くの指揮者はこれらが最大の目的になっているのです。コンクールなどでもこの辺にしか視点がない。そもそもコンクールが多発し一見世界の指揮者のレベルが上がったかのように錯覚しているのは指揮者であり、実際はそれによりどんどん表面的になってきている、要するにレベルが落ちてきているわけです。近年そんなこんなでコンクールが多発し、また指揮マスタークラスもものすごい数になって来ました。つい数年前まではここまでではなかったのに、ここ数年で一気に…。


今はこれらが増え続けている状況なので分かりにくいですが、このまま行くと気が付いたら指揮者のレベルが落ちるどころか、全く違うものになっているように思います。もちろん今後それらがどうなっていくかは分かりませんが、このままだとそうなります。そして指揮者が違うものになると、音楽界全体もそれに比例するところが色々あるでしょう。一つ例を上げるなら、コンクール指揮者等がオペラの下積みなくいきなり劇場指揮者になってしまうがために、近頃は劇場指揮者の在り方、コレペティトアの在り方が昔とかなり変わってしまっています。このまま行くと、ヨーロッパのオペラのレベルまでもが落ちてしまいます。いや、すでにかなり落ちているように思います。


指揮者に限らず全ジャンルでコンクール多発の時代、これからどうなって行くのでしょう。そのうち多発し過ぎた結果、コンクールに通っても意味がないとなり別の道が模索されないかとも思いますが、日本では今のところ逆のようですねえ。ヨーロッパは基本的にはコンクールはそこまで興味持たれませんが、それでも増えて来て指揮者に就任する者はコンクール指揮者がメインになって来ております。これは世界のクラシック界の危機です。コンクール社会が廃れることを切に願ってしまいます。


ヴィヴラート

日本人が異常なまでに大好きなものである!日本を中心とした東洋の民族はヴィヴラート、すなわち”揺れ”が大好きで心地よく感じるわけである。例えば日本では演歌などでもかなり声を揺らす歌い方があり、それが非常に美しく心地よく感じるわけである。これは東洋の民族にとって自然であり文化とも言える。ゆえにクラシック音楽をやる際、ここにも演奏にはヴィヴラートが存在するが、当然日本人らはその感覚でそのまま使うわけで、ヴィヴラートへの思い入れははっきり言ってダントツ世界一である。


ところが、本場ヨーロッパではどうだろうか?実は全然そんなことはない。まず明らかに日本人らに比べてヴィヴラートがそこまで特別でもなければ好きでない。むしろ好きでない人が結構多い。音大生同士の会話でも、例えば「あの人の演奏はすごくいいけど、ちょっとヴィヴラートが多すぎるかなあ…」といった会話は頻繁に聞く。これはそこまでヴィヴラートをかけることに執着もしてなければ興味もなく、それゆえにちょっとでも無駄にかかっていると感じるとすぐに気づいて指摘するというわけである。日本ではまずあり得ないである。かければかけるだけいとされるからである。


東洋ではヴィヴラートがかかっているのが普通である。何もないとつまらないわけである。ゆえに有名な話、日本の弦楽器奏者は右手よりも先に左手(ヴィヴラートの動き)の方が先に動き出すわけである。ズバリ言うと、左手の方を先に動かしている。多くの弦楽器教育者が、左手を先に動かす、あるいは先に左手を動かす準備をするように指導するからである。なぜそうかというと、ヴィヴラートがかかっている音が基本であるという感覚だからである。ヨーロッパは前述のようにその辺の感覚も考え方も違うわけである。もちろん奏法的にはヴィヴラートはかけるのだが、それ以前にノンヴィヴラートでしっかりとした音程や音色などがあり、それからプラスアルファ―としてヴィヴラートが存在する。これは根本的には民族違いなので仕方のない話ではある。ヴィヴラートが基本の東洋人がノンヴィヴラートが基本の西洋人の音楽をやる時にどうすべきか、そこが難しいのである。結論を言うなら、より高いレベル、すなわち本物を目指すならば、西洋人の感覚を理解して変えた上で対応すべきである。あるいは、日本人であるから自分の感覚(都合)でやりたいと言うのであれば、そのままでいいと思う。どちらを選ぶかはその人の目指すレベルの違いであり、はっきり言ってしまえばその人がどう人生を送るかの話である。ただ、ヴィヴラートの感覚は西洋と東洋では明らかに違うので、その現実だけは知って頂ければと思う。とは言え、これはそもそも感覚の話。感覚は人それぞれ、民族によってそれぞれなわけであるが…。