Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

ジャンル崩壊

厳密には崩壊というより変更なのかもしれないが…。


日本でオペラを歌ってる方々は、ほぼ全員、とにかく演技がした。歌いたい=音楽をしたいという方には基本であった記憶がない。稀にいなくはないが、その少数派は影の存在になってるか、実力がないとされるか、はみ出しもの=分かってないそされてしまっている。クラシック音楽の声楽というジャンルに属するオペラ、総合芸術とは言えそれは結果論でありまずは音楽そのものなわけであるが、なぜそこまで演技がしたい者が集まっているのか。もちろん、ヨーロッパにも演技好きなオペラ歌手沢山いる。しかし、彼らはどんなに演技をしようとも、その前に音楽をしっかりやっている=音楽で全てを作っているわけで、演技はそれからの話である。なぜなら、オペラは音楽だからである。


ところが、日本ではオペラは音楽ではなく芝居である。なぜこうなったのかは思い当たる部分はいくつかあれど、正直根本的に分からない。何をどう考えたら&見たらオペラが芝居になるのかがさっぱり分からない。確かに見てくれ的には一見芝居のように見えるかもしれないが、やってる者も音楽家=声楽家で役者ではない、作ってる者も音楽家=作曲家、流れは常に音楽により組み立てられ伝えられている。演技等はその流れの中である。これでどうしたら芝居と言えるのか?確かに日本ではこれが無理やり真逆になっている。まずやってる者だが、声楽家=演奏家=音楽家という意識が経験上見えてこない。明らかに役者と思ってやているようである。口では声楽家=音楽家と言うかもしれないが、そうはなっていないし、本来てそう思っているのなら明らかに間違っている。作っている者が作曲家というのは頭の片隅にはあるかもしれないが、そもそも彼らは楽譜を読み込まず、作曲家への経緯が感じられない。まあこれには日本的発想=作曲家の意思ではなく自分流にというのも影響しているのかもしれないが、いずれにせよ音楽に興味がなく研究も追及もしない。流れは、常に演技で組み立て伝えるものとされ、音楽は完全におまけになっている。このおまけもそのつもりではないと言うであろうが、残念ながらそうではない。なぜなら、演技以前に音楽で全てを表現すべく準備をせず演技に走っていてはどうしようもないからである。


そんなこんなで、ほとんどがオペラ出演を決める時、演技できることが何より大事、いや、それが全てのようで、演技がない(演奏会形式等)には魅力がほとんどない。変な話、オケ伴奏での演奏会やガラコンサートぐらいになると、たまたまその内容(曲目等)に興味があればいいが、そうでない限り価値を感じないようである。その時々の都合はさておき、まず根本的に演奏=音楽に興味や価値を感じないのは、明らかにオペラ歌手失格る。確かにオペラには演技が後からついては来るが、それが好きなのは構わないが、その前に音楽そのものに興味がないと不可能である。


というわけで、日本ではオペラはジャンル崩壊、すなわち音楽ではなく芝居に無理やりされているわけである。とは言え、オペラは芝居的要素が入ってはいるものの芝居なわけないし、そもそも芝居の演技はオペラではできない、なぜなら音楽だからである。一つ現実を描くならば、本物の役者らからすると日本のオペラ歌手の演技は笑いものにすらなっていない。単なる素人学芸会でしかないわけである。そして前期の通り、ここまでくるとジャンル崩壊というより変更である。彼らは異常なまでに芝居にこだわっていてそれが全てである。しかしながら、その演技レベルは役者からしたら論外である。当然オペラ歌手の演技への追及は役者レベルでは全くないわけであるが、そもそもオペラを芝居化しようとする時点で無理と不自然が生じるだけで、音楽も演技もはちゃめちゃになってしまうわけである。


これらはごくごく当たり前のことなわけだが、なぜかここまで大問題である。そしてその基本的な当たり前な部分だけでもなんとか修正すべく貢献できないかと考えたわけだが、前期の通り崩壊→変更なため、逆に自分らのヨーロッパで学んで来た&経験して来た常識=本来のオペラが通用しない。その本来のオペラが嫌なのか、あるいはどうしても日本独特の学芸会オペラが好きでたまらないのかは分からないが、どちらを目指すかは人それぞれである。自分は最初から迷わず本場に謙虚に自然に学ぶ方を選んで今日があるが、ひょっとしたらその辺が留学するかしないか、国外を目指すか国外を目指すか、その最初の分岐点なのかもしれない。確かに本場や国外を目指さない者からしたらどうでもいいことかもしれない。特に日本は島国で、外から来たものを自分たちの都合に合わせる傾向が異常に強く外に合わせることが異常に嫌いなところだからである。


このような内容はここで何度か書いてきているが、最近色々あって改めて強く思ったためまた書きました。個人的に思うのが、日本ではオペラを名前から変えた方がいいのではと思えて来ている。なぜなら、日本でされているそれは全くオペラではないかあである。前期の通り、将来的にどの方向を目指すかは人ぞれぞれでいいとは思うが、何がオペラで何がオペラでないか、ジャンル上の分類位は世のためにやるべきではないかと思うわけである。それだけ日本のオペラは違うものになっているということである。


連絡=信頼関係

少々ビジネス的な話にもなるかもしれないが…。連絡を取る、取り合える、などは仕事からプレイベートに至るまで、信頼関係そのものである。音楽仲間の間では特に強いかもしれないが、世界的に見てもビジネスシーンにおいてこれは必要不可欠なことである。


近頃の日本には、この連絡を取る、取り合う、これらが著しく欠けてきているように思われる。例えば誘いやオファー等の連絡をしたとする。近頃多いのは、興味がない、自分に関係がない、ひどい場合は自分に都合が悪い時、それらの時に返信すらしない、要するに無視である。今の世の中こういう者が非常に多く、またそれでよしとされてしまっているようである。中には短くともその連絡に対して断りからお礼に至る返信をする者もいるが、少ないように思われる。それはその人との関係次第かもしれないが、冷静に考えると、連絡が来たら何かしら返事をするというのは本来人間の行為として当たり前というか基本である。中には、内容によっては返信しないという意思表示の方が親切だという者もいるらしいが、それは完全なる個人の都合である。まあそういう者が増えているから世の中それで通ってしまっている部分があるというわけだが。


そして、特にビジネスシーンなどのある程度のレベルのところになると、この返信という反応がある程度早い段階で行われる。よく、忙しい人ほど返信が早いとか確かとかいう話を聞くことがあるが、それがまさにこれである。この忙しい人というのは、言い換えるならば優秀な人、できる人、仕事の多い人等である。要するに、ある程度のレベルの確かな人たちは確実に連絡を取り合えるわけである。当然こういったレベルの人たちは、連絡=信頼関係で成り立っているわけである。本来普通のことかもしれないが、今の時代それが全然普通じゃなくなっている現実がある。


個人的なことになるが、自分はこの連絡=信頼関係をものすごく大事にしている。はっきり言って、どんなに付き合いが長くても、どんなに親しい人の紹介でも、最低限度連絡を取り合えない人とは距離を置いている。というのも、やはりそういう人たちは全てにおいてその程度のレベルであり、付き合い続けても、何かを共同作業しても、やはりろくなことがない。それでよしとしている者同士ならばバランスよく付き合えるかもしれないが、それはあくまで低レベルの話であって、ある程度のレベルでそれなりのことをしたいと思った場合、この連絡=信頼関係は絶対だと経験上学んで。上記のように連絡取れない、自分の都合で、といった人たちとはいい関係にもならなければいい影響もないし、逆に連絡がちゃんと取り合える人に間違えはない。


出会って間もない人でも、連絡がしっかり取りあえる人とはいい信頼関係が築ける可能性がある。もちろん、八方美人的に愛想だけ振りまいている調子のいい者は別だが(爆)そして古くからの友達や仲間でも連絡がちゃんと取り合えないものは、やはりどこかで信頼できない者であることがほとんどである。音楽業界でもその辺を気を付けることは非常に大切である!


計算してはいけない

物事を計算する。元々は数学ではあるが、元来日本人はこの計算するということが好きで得意。しかし音楽家をはじめとした芸術家は気をつけねばならない。特に音楽だが、どういうわけか日本では音楽=数学という考え方が充満している。これは日本独特のもので、ヨーロッパでもしそれを言ったら音大生にすら笑われるというレベルの大間違いである。


音楽とは感覚的精神的でかつ自然なものであり、数学的にも幾何学的にも考えたりやることは不可能である。音楽理論等はもちろん後付けであり、別の視点から見て知るという物に過ぎず、演奏する時には直接使えるものではない。音楽、演奏、計算ではできないしやってはいけない。技術もそうだが、計算は人を圧倒することはあっても感動させることはない。