Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

残念な現実

オペラにはドイツ、イタリア、フランスを中心にチェコ、ロシアなど様々なジャンルが存在する。特に最初の3つは主要ジャンルとされ、オペラ人の基本と言える。世界中のオペラ劇場やオペラプロジェクトもこの3つを軸にプログラミング等を行うし、オペラ人を目指す者もこの3つを軸に考え学ぶ。しかし、人間社会においては仕方のないことなのかもしれないが、偏りが起こってしまうこともある。


残念な現実だが、日本ではかなりイタリアへ傾倒していて、それゆえにイタリアオペラ以外、特にドイツオペラには毛嫌いまで生じている。もちろん個人個人というところもあるが、しかしこれの範囲は広い。日本の声楽教育は完全にイタリアオペラの為にあるかのようで、教育機関によってはイタリア物しかやらないところも少なくない。団体によってはイタリア物しかやらないところが非常に多い。もちろん日本の声楽界にも、例えばドイツリート、例えば宗教音楽やバロックなど、イタリアオペラ以外のジャンルに着目した指導者や団体も存在はするが、あまりにイタリアオペラにしか目を向けない方々が多すぎるため、それ以外は影の存在になり、酷い場合は下に見られてしまったりもしている。これは非常に残念なことである。


自分が大きく影響を受けている某オペラ指揮者の先生とこういう会話をしたことがある。


自分「日本の音大の声楽科の多くではイタリアオペラを中心に扱い、その結果イタリア語以外は読み方すら知らずに卒業する学生が多い。」


先生「んー、せめて音大の声楽科を出たのであれば、いくら得意不得意や好き嫌いがあったとしても、最低限度イタリア語、ドイツ語、フランス語でぐらいは歌えるようでないとなあ…。」


おっしゃる通りである。この先生とは大ベテランで、オペラ黄金運時代と言われる前世紀後半にヨーロッパの劇場で活躍された経験ある方だ。先生のこの発言はまさにオペラ人の基本である。この会話は自分が学生時代のことだが、それ以来自分は少なくともこの3言語でオペラに対応すべく読めて歌えるようにはして来た。それに加えて、近年はチェコ語も可能になった。厳密にはドイツ語圏での生活が長い自分はやはりイタリア語やフランス語のラテン言語よりドイツ語の方が強いのは仕方ないが、しかしオペラとしては隔たりなく学び接してきている。なぜならこれがオペラ人の基本であり、欠かせない基礎だからである。当然これからも変わらない。


話を戻す。日本に多く存在するイタリアオペラしかされない方々、あるいはそれに近い方々。全員ではないかもしれないが、自分が知る限り、そういった方々はイタリアオペラ以外、すなわちドイツオペラなどを全くと言っていいぐらいご存じない。誰にだって好き嫌いはあるし得意不得意はある。しかし全く知らず、覗きもせず、先入観や固定観念で毛嫌いしてしまうのは非常に残念である。人間まずある程度知らないと絶対におもしろくならないと思う。最終的にどうするかはもちろん個人の自由だが、少なくともオペラ人であるならば、まずドイツオペラを知る程度ぐらいは目を向けて頂きたいと思う。恐らくドイツオペラを毛嫌いしてる方々はここまで到達されてないと思う。


また間違った情報から誤解も多く、それゆえに毛嫌いという場合もある。例えば、どういうわけだか日本ではドイツ語は固いと思いこまれている。しかしこれは全く間違えである。実際にドイツ語圏でドイツ語で生活し音楽もやってきた経験上、ど嘔吐後は独特の美しい響きとフレーズ感を持っている、全く固い発音ではない。例えば、美しいドイツリートを思い浮かべて頂きたい。固い言葉に音楽を付けて、果たしてあんなに美しい音楽になりえるだろうか?あるドイツ語圏の方がある時こう言われていた。「日本人のドイツ語は固すぎてイタリア語みたいだ」と。ズバリ言うと、ドイツ語を固いと思い込む日本委員は全ての子音を固く立てて発音し過ぎる。本来ドイツ語は重なった子音と曖昧な母音とが組み合わさり、発音そのものがくっくりしないところがあり、それゆえにフレーズ感も飲食も生まれる。ところがイタリア語はドイツ語よりも子音がクリアーだ。特に声楽に対応しようとすると子音も母音もクリアーに発音する必要がある。ゆえに、勘違いが重なった結果、ドイツ語で子音も母音も固く発音しようとした結果、イタリア語の出来損ないのようになってしまったというわけだと思う。また実際、子音はドイツ語よりもイタリア語の方が確かにきっちりしえいるし固いわけである。正確には固い問いよりクリアーできっちりしていると言った方がいいのかもしれない。しかし間違ってもドイツ語の方が固いと言うことはまずあり得ない。話を戻すと、このように勘違いなどから来る先入観でドイツ語の音楽を自ら嫌いにしてしまった方々も多いと思う。


もう一つ。民族性による好みの問題もあると思う。日本人はとにかく形、見栄えが好きだ。中身は後回しで、まずは表面から入る。確かにこの性格はドイツ人よりもイタリア人だ。ゆえに、派手で劇的なイタリアオペラの方が分かりやすく好きになりやすい。ドイツオペラは内面的で内容重視なところがある、異文化のドイツのそれをある程度理解しないとなかなか分かってこないので、確かに難しいところはある。また日本人はとにかく芝居が大好きだ。イタリアオペラはドラマが劇的で分かりやすいく、また色々な理由からオペラ=芝居と思い込んでしまってる方々はもうイタリアオペラへ行くしかなくなるわけである。中身を理解し深く音楽を作ろうとするドイツオペラ系は時間がかかりややこしいとなってしまう。


話をまとめよう。もちろん最終的な好みや適性は個人個人だしそれは色々あっていいわけであるが、色々な理由から今日の日本ではイタリアオペラが過剰にクローズアップされすぎて他が毛嫌いされている傾向が強すぎる。これは音楽文化発展的にはマイナスな部分に少なからずなってると思う。何より他に目を向けない分視野が狭くなってるわけで、それだけでも残念に思う。さらに、それゆえにイタリアオペラこそがオペラでそれ以外は…という方はさらに音楽家として残念に思う。是非一度他の世界も見て欲しいと思う。また多くの日本の声楽家はイタリアこそが世界いいのオペラ大国だと思い込んでる方が多いようだが、それはとんでもない間違えである。最近自分のイタリアオペラ好きの友達に「ドイツには60~70の劇所がるが?」と言うと相当驚いていた。まず友達はドイツにそんなに劇場=オペラがあるわけないと思っていたようであるが、これは明らかにイタリアよりはるかに多い。ドイツは歴史的にオペラ劇場を中心に回っているところがある。またある別の方に言われたことだが、ドイツ語圏にいたことを知ったその方は「ドイツオペラ(ばかり)ですか?」と。そんなことはあるわけない、ドイツ語圏では色々なジャンルをまんべんなくやっている。もちろん土地のオペラ=ドイツオペラは少なくないが、それと同等かそれ以上にイタリアオペラもやるし、フランスオペラもそれ以外も。そういう意味でもドイツはオペラ大国だである。その他アメリカにもオペラ劇場やカンパニーは多数存在するし、それ以外の地域にも少なからずある。実はイタリアはオペラ発祥の地である反面、オペラ界的にはそこまで機能性が高くないのが現実である。歴史は揺るがぬものだが、しかし社会的にオペラが機能している国は他にいくつも存在する。こんなに広い世界があることも是非覗いて頂ければと思う。


このように、オペラ界とは意外と広いもので、オペラのジャンルもさらに広い。イタリアオペラは主要ではあるもののその一部に過ぎない、イタリアオペラだけをやってオペラを知ったということには全くならない。最終的に何を選びどうするかは各自の人生だが、しかしできれば、オペラというものがどういうものか、一通り考えられた方がいいのではと個人的に思う。その方が音楽的にも人間的にも幸せな気がする。当然、自分も今現在、そしてこれからも、少しでも広く深く広めていければと思う。


新たな出会い

今日は某友人の紹介でオペラ公演の為の練習の代理コレペティでした。こう言ったケースはたまにありますが、今回久しぶりでした。紹介者の友人以外は皆初対面、いい出会いでした。


今日の歌手の皆様は本当に優秀な方々ばかりで、最初から結構歌えていたのでコレペティといっても大したことはしてないようなものです。コレペティトアとは基本的には自分が歌手らへ何かしらを与える立場ですが、こういう優秀な歌手陣の場合はこちらもいい意味で何かしら頂くものがあります。こういう出会いは音楽家として嬉しいですし、今後の為にいい刺激になります。


帰りにその中のテノール歌手の方と同じ電車でした。彼はご自身の演奏活動はもちろんですが、ご自身で経営されている声楽教室の方も積極的に展開されている方でした。色々な話が聞けておもしろかったです。こういう純粋にオペラに取り組んでられる方との出会いはオペラ指揮者&コレペティトアとしては何より嬉しく、また欲しい出会いです。こういう方とは是非何かしら機会があって欲しいですねえ!


というわけで、今日は新たな出会いがあり楽しかったです。また頑張ろうと素直に思えます!指揮者&コレペティトアとしてオペラに携わっていると色々な出会いがあります。そういう喜びが続けさせるのでしょうねえ。


本来なるべき者

これまでの色々な経験から思ったことだが、劇場の指揮者&コレペティトアは必ずしもオペラをやるのに適した人材ではないということである。どんな世界でも実力と地位は全く比例しない、実力があってもチャンスすら来ない者もいれば、実力がなくとも何らかの理由で成り上がって行く者もいる。これは世の中であるからある意味普通かもしれない。しかし採用基準、すなわち、どういう者がオペラをやるべきか、自分の知らない時代のことは直接見てないものの先輩方から教わったことも者に考えると、どうも時代と共にかなり変わって来たように思う。


指揮者&コレペティトアの育成が行われるところは主に指揮科かそれに準ずるところである。傾向として、指揮科は理論的、技術的要素が強い。もちろん基礎として必要なことだが、実践の場においてもこれらで押し通そうとする稽古が強い。実践の場合、基礎としてどこかに理論的理解があったり、技術的対応があったりはするが、しかし多くの場合そんなこと言ってる場合ではない理屈抜きに、といった局面が多い。


具体例をあげてみる。例えば歌手との稽古である。テンポやリズムを揃えようとするあまりメトロノーム的になる指揮者&コレペティトアが非常に多い。もちろん練習の段階では必要なことではあるし、この時点ではできない歌手の方が悪いと言われても仕方ない。しかしそれが過剰すぎると、長く多くやりすぎると、明らかに音楽的につまらなくなり、さらにはそれゆえに歌手の声に悪影響が言ってしまう。声とは精神状態が直結するものであり、過剰な無駄な行為は直ぐに出てしまう。そして最悪の場合は歌手は声をなくす。これらが原因で歌手生命を絶たれたものも実際にいる。程度はその場によるが、これは恐らく今の時代ほとんどの劇場で日常茶飯事に起こっているように思う。


指揮者&コレペティトアの多くは、立場上の視点から例えばメトロノーム的にやることを使命と思っている者も少なくない。確かに立場上これができるのもやるべきのもその人種であることには間違えない。しかし本来、指揮者はメトロノームでない。コレペティトアもメトロノームの役割をすることはあうが、作った者が音楽にならなくては全く意味がない。残念ながらコレペティトア=メトロノームとはっきり言い切ってしまうヨーロッパ人もいる。さらには日本にも実際にいるが、指揮者=メトロノームという考えまで。メトロノームというのはあくまで練習用の機械であって、全く音楽ではない。役割として必要なのは百も承知だが、音楽でないものを最後まで押し付けたり過剰に用いるのはその時点で明らかに音楽家でも演奏家でもない。


このように、音楽や歌手にとって明らかに限界スレスレの指揮者&コレペティトアが多いというのが現実である。なぜこういった人種が増えたかというと、元々の理由は歌手のソルフェージュ力等にあるのかもしれない。それからコンクールの時代で競技用、大量生産的な音楽教育になって来た今日、音楽的なことよりもそういった表面的で機械的な方面に傾倒するようになったとも言える。そしてないより大きいと思うのが、そういった理論的、技術的、機械的な者は指揮科の世界では優秀な者としてものすごく好かれるのである。例えばクラスの学級員等に進んで立候補する積極的な仕切り屋さんタイプのテキパキした固いタイプ、早い話がそういう者、そういうのにあこがれる者が集まって来たと考えれば近いかもしれない。しかし世の中それだけではうまくまとまる者ではない。ゆえにそういう人種の中で優秀とされた指揮者が優秀な指揮者では全くない。話を戻す。声を言う極めて繊細なものを扱うオペラ指揮者&コレペティトア、また音楽の最高な深い世界でもあるオペラ、ここにいるべき指揮者&コレペティトアとは本来どういう者であるべきか?そう考えた時、現在のオペラ界の状況、劇場指揮者&コレペティトアの人選、色々考えさせられてしまう人は少なくないはずである。


劇場の空間、すなわちオペラの現場において、基本的な役割は次である。オケは楽譜にあることを指揮に合わせて責任もって弾く、指揮者は楽譜をもとにピットのオケと舞台上の歌手を音楽的にまとめて合わせる、歌手は楽譜にある自分のパートを責任持って舞台上で表現する、である。もちろん言い出せば他にも色々あるが、一番の基本的土台はこう定義されている。その土台を考えた上で前述のことを色々考えて頂きたい。残念ながらオペラ界ではどうも歌手の尊厳というか、歌手の意見等が反映されていないところがある。確かに社会的には声楽家という労働者である以上ある程度使いまわされるのは仕方ないが、しかし音楽を作って行く上で、演奏家として最低限度意見すべきことなどはあるはずである。指揮者主導でやると前述のようになりやすい。しかし歌手主導になりすぎてもこれまた別の意味で難しい。バランスが大事である。ただ前述のような問題は明らかに歌手の意見が皆無のような気がする。その辺がうまく機能し、本質的に選ばれるべき者、すなわち本来オペラ指揮者&コレペティトアになるべき者が出現してくることを切に願う。