Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

演奏会形式オペラ

世界各地で近頃結構頻繁に行われているオペラの演奏形態である。オーケストラがシンフォニーコンサートと並べてオペラを演奏する時、劇場がオペラ上演の合間にたまに挟む時、などなど。オペラ上演よりかは舞台設備もなくシンプルなため日本では不完全な見方が多いが、これはこれでヨーロッパでは充分演奏会としてもオペラとしても成立している。なぜなら結局のところ、オペラとは演奏する方も、聴く方も、音楽を中心に考えているからである。


ところが、日本ではこれが結構はちゃめちゃに変わっている、いや、変えられている。というのも、まずやる方の話だが、皆演奏会形式を基本的に嫌っている。予算等の問題で仕方なくそうしているといったところだろう。なぜなら、皆オペラは演技を何より第一に考えるからである。ここはヨーロッパとは真逆である。そして、それでもそのまま演奏会としてやればいいのだが、日本ではそれでも尚無理矢理芝居化する。舞台上のオケの援護のわずかなスペースで可能な限り動こうとするし、ピアノ伴奏であろうものなら完全にピアノのスペース以外を舞台として使う。リノリウムもなく、照明もそこそこ、当然舞台セットもない。そんな環境で無理矢理衣装をつけて、無理矢理中途半端なセットを置いて、無理矢理動くわけである。正直無理し過ぎて痛々しい、というより申し訳ないが馬鹿らしいレベルである。オペラでそこまで演技にこだわる必要ははっきり言って全くない。


やってる者達はその方がお客さんが喜ぶと思っているらしいく一番必要なこととの認識らしい。確かに日本の数少ないオペラファンと言われる人達は喜ぶかもしれないが、残念ながらそういう人種は少なくそうでない人種の方が多いわけで、そういう人たちは皆日本のそういうオペラの取って付けた無理矢理芝居化オペラを気持ち悪いと思っている。というわけで、お客さんのことを考えるのであればむしろそれはやめるべきであり、それが何よりファン拡大にもつながる。要するにオペラを普通に音楽としてやればいいということである。舞台上演できるならばすればいいが、演奏会形式ならば音楽だけそのままやればいい。やはり不自然なものには違和感しか残らない。


演奏会形式は読んで字のごとく演奏=音楽のみでオペラを再現するわけだが、本来終えpらとは音楽であり、音楽で作って表現されるものである。そして舞台作品にすべく視覚化するためにオペラ演出がある、要するに後付けである。演技等は、話はそこからである。ゆえに、核はあくまで音楽であり、オペラ本来の姿が演奏会形式というわけである。音楽だけ勝負し、オペラ本来の良さを純粋に感じることができる、それが演奏会形式の良さである。日本でもそんな公演が実現してほしいし、そうすることでオペラファンは少なくとも今よりかは確実に増えるであろう。


人種差別

ヨーロッパのEU後進国の地方都市へ行くと、未だに日本人がオペラをやってることを知らない人種が意外に多く存在している。そんなところのそんな人に履歴書を見せると、「これは嘘だろ」と言われることもある。確かに日本のオペラは残念ながら世界的にはかなりレベルが低く、しかもオペラを音楽ではなく芝居としてやっているたけ全く違う者になっているので、ある意味馬鹿にされて当然な部分はある。しかし、例えば履歴書のそれ、完全に個人の話であり、少ないとはいえヨーロッパで結果を出している日本のオペラ人もいないわけではない。ヨーロッパ人からしたら日本人は皆同じと考えているのかもしれないが、さすがにこれは確実な人種差別である。


これは音楽的には仕方ない現実かもしれないが、国際社会的には完全に悪いことである。履歴書やプロフィールは確かに自分を売り込むためオーバーに書く者は多いが、しかし少なくとも自分はそれを全くやっていない。とくにオペラに関しては、全く嘘偽りなく書いている。まあ、その辺のヨーロッパ人指揮者よりもオペラ指揮者としての実績やレパートリーがあれば、それを信じたくないと言うわけであろう。さらに、そういった地方都市は保守的でよそ者を入れたくないところがある。ゆえにそういう態度に出るというのも一理ある。そして外部者が来ると良くも悪くも不安を持つという。もしも実力者が外部から来たら…と思うと怖いらしい。自分は決してそんな乗っ取り計画をしているわけではなく、単に仲間に入れて欲しいだけ何だが…。


いずれにせよ、人種や地域、色々な意味でどうしようもない現実がある。そんな中サバイバルするというのはどうしようもなく大変である。


真実とは

クラシック界は謎な世界である。それはその場所と時代の社会が反映している。クラシック界独特のキャラクターはあれど、所詮人間のやることである。コンクールという裏ビジネス、演奏家採用にまつわる裏ルートと人種差別、人間界ではある意味仕方ないことではあるが、大抵の場合この現実に直面する。


例えば日本、型にはまることが一番正しく人の道とされて来ていて、そこにはまる者が評価され出生する。それでいて、年齢が行けば実力や実績に関わらず偉くなるという。ゆえに、何が正しいか、間違っているかではない。個人レベルの問題ではあるが、地位のある者や年配者にこの傾向が強い。日本はほぼこの枠の中でしかない。そして彼らの特徴は、人の話を聞かないということ。自分は年齢がいっているから、地位があるから、理由はそれだけである。さらに、彼らは若者や地位の低い者に対して決まって人の話を聞けという。完全に自分を棚に上げている。かつて自分もそうされて来たということだろうが、必ず嫌な思いをしてきたはずだが、しかし自分もそうやるようになってしまっているという。日本独特の軍隊の時代から来ている洗脳教育であり、そして現実と闘わずに逃げると言う人間の弱さから来ている。しかしながら、最近はそれもある意味崩れかけようとしえいるところもあるようだ。誰とは言わないが、最近日本でもそれなりに地位のある年配者等が色々と大問題を起こしている。そして皆嘘をついたり、人に擦り付けたり、とにかく逃げる、話を逸らす。そしてやはり人の話を聞かない。


これら社会の問題は、当然クラシック界にもそのままである。世の中には確かに真実はある。しかし、真実が通るとういうことはほぼない。現実を見ない、人の話を聞かない、日本的に言うならば年齢や地位を理由に自分本位に進めようとした結果人に、さらには社会に迷惑をかけてしまっているという。自分は常に人の話を聞くように心がけているが、よく人の話を聞けと言われる。そう言って来るのは大抵年配者等であるが、しかしそういう者達は明らかに自分の話を聞かない。人のことを言う前に自分は?ということだが、この辺が日本の悪いところであろう。年齢が上ならそれでいいか?ありえない。それを理由にするというのは単なる弱く逃げてる者に過ぎない。日本では年齢が上なのは絶対的とされてきていたが、しかし現実はそんなに甘くない。年齢がいっていても、分かってない奴は分かってないし、できない奴はできない。ある程度大人であれば、その人がどういう人生を歩みどういう能力をもっているか、それに尽きる。それでいつまでも自分が年上だから、というのは単なる敗者でしかない。


こういう発言は日本では未だに批判を受けるだろうが、しかし現実はそうであることを認めねばならない。ましてや西洋音楽をやり外国へ出ようと言う者であればなおさらである。ヨーロッパではこういった理屈、年齢や地位、全く通用しない。例えば、年齢は全く関係なく人と人、地位は役割分担に過ぎない。年齢で差をつけるというのは、完全なる上から下への抑え込みでしかない。人と人は対等でなければまず話し合いにならないし、本質的に通じ合うこともない。そして信頼関係と言うのは、仮にそれがそれが年齢が違う師弟関係であっても、最終的には人と人とのつながり、すなわち弟子が師匠を尊敬し認め、師匠が弟子に愛情をもって接することである。そろそろ日本も年齢や地位といった型を省かないと、限界が来ているように思う。