Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

序列の違い

ヨーロッパの劇場の音楽チームはコレペティトアに始まり、一番最高な地位は音楽総監督(GMD)まである。その間、コレペティトア&指揮者などいくつかの役職があり、それらは劇場や地域によりいくらか異なるが、大体の定型がある。音楽チームの中ではそういった感じである。そして劇場全体の中でこの音楽チームはどうかと言うと、言うまでもなく劇場内に数ある役職や人種の中でも特に主役である。立場上トップはインテンダント(総裁)であるが、その次にメインとなるのは、この音楽チームではなかろうか。もちろん目玉商品となる歌手陣も同等で、さらにオーケストラも立場が強い。合唱もそれなりである。しかしそれらを仕切る音楽チームの存在は大きい!またヨーロッパの劇場はオーケストラの存在も次いで大きい。と言うのも、歌手陣は数年単位で移籍したりするし指揮者やコレペティトアもそれに同じだが、オーケストラは基本常にそこにいる、言わば主と言ってもいいような存在である。これが座付きオケというものだが、それゆえに劇場はある意味オーケストラを軸に動いている部分もあるし、劇場オーケストラの正団員になるのはかなり難しくはあるが、これこそがある意味劇場における最高な就職とも言えるかもしれない。その他、制作部的部署、オーケストラや合唱の裏方、照明や道具など、色々な部署があり、劇場では多くの人間が常に動いている。まとめると、その中でもやはり音楽チームの存在というのは極めて揺るぎないものである。


一方日本では、ヨーロッパのような劇場こそないが多くのオペラ団体等が存在する。それらの内部のシステムはどうかと言うと、ヨーロッパの劇場とかなり違いがある。一見、名前的には大体似てはいるが、機能性や存在感などは大きく違う。まず日本のオペラ団体のほとんどは演出家や舞台監督を中心に歌手らが集結したチームが動かすこと多く、そのままそのチームが仕切る。ゆえに音楽的要素がこの時点で弱くなる。その後指揮者や(日本の場合)練習ピアニストらが入って来るわけだが、この時点で序列的には低くなる。雇われる、使われる、という立場ゆえにかもしれないが、その前に最初に集結したチームでは明らかに舞台作品を作る土台であり、音楽作品を作る土台とはすでにちょっと違ってきている。これが理由の全てかは分からないが、日本のオペラ界では演技が中心に全てが回っている。結果音楽チームはおまけよようになってしまっている。この辺がすでにヨーロッパの音楽チームとオーケストラがしっかりしている土台とは真逆である。また日本のオペラ団体におけるオーケストラの序列はある意味さらに低く、予算的都合からよく外される。趣旨にもよるが、もちろんピアノ伴奏でも充分いい公演は作れると思うが、しかしオペラの最重要要素の一つのオーケストラの存在が理由は色々あれどあまり重視されてない現実は残念である。変な話、日本のオペラ団体から雇われるオーケストラへの待遇は残念ながらプロの音楽家レベルでは全くない。これは指揮者や練習ピアニストへも同じ。これでは音楽レベルは上がらず、仮にプロジェクトがうまくいったとしても、それは所詮芝居に音楽を少し付け添えたに過ぎない舞台でしかないわけでオペラではない。


そういうわけで、日本のオペラ団体は極めて芝居小屋のようになっている。もちろん団体にもよって個人差はあるし、決して音楽レベルの悪くない団体も存在しているかもしれないが、全体的な基本的傾向はこうである。確かに日本のオペラ界は演技重視でかなり研究されていると思う。しかしなぜ音楽がそうはならないのか。すでに演技に過剰に傾倒し過ぎたからか、音楽にそこまで興味がないのか…。一つ言えることは、オペラという音楽を伝えられる人材、すなわち指揮者&コレペティトアの強烈な不足が大きな理由であろう。しかし、元々劇場がなかった日本にそういった人材がいるわけもなく育つわけもなく、最初に演出家らが力を持ち全体がその方面ばかりに傾倒してしまった結果、音楽面が発達せずにいる。そして日本のオペラ界のこのスタイルは相当固く出来上がっており、皆強烈にそれにこだわっているかのようである。ゆえに仮に優秀な指揮者が&コレペティトアが出て来ても、そこに入る余地がないわけである。なぜなら、すでにかなり強烈にオペラは芝居とされてしまっているからである。事実、最近の日本でチラシやプログラムでは、演出家が一番最初に書かれることが多くなり、裏方でも副指揮者や練習ピアにストより、演出助手が先に書かれることが多い。この辺もヨーロッパとは逆であるし、考え方や位置づけの表れである。


そんなこんなで、日本のオペラ界では指揮者も練習ピアニストも序列が低いわけである。ピアノ伴奏での小さなプロジェクトであれば指揮者なしのことも多い。また最近聞いた話、予算削減の為音楽練習を全カットしていきなり立ち稽古から始める団体もあるとか。それ以前に、日本ではオペラ=芝居なため、舞台で演技をすることが一番重要とされている為、演奏会形式という考えがほとんどない。仮に演奏会形式の設定であっても、狭いスペースで無理やりでも動こうとする、音楽に集中しない。話を基本的なところへ戻すと、オペラは確かに舞台作品であるが、それは結果論である。そうである前に音楽作品である。物語だけでは芝居にはなる可能性はあっても、作曲家が音楽を付けてくれなければオペラにはなりえないわけである。まず音楽、これがないとどんなに素晴らしい演技をしても全く意味がないわけである。ゆえに、例えば予算がなくて上演が難しいならば、オペラの核である音楽勝負=演奏会形式、でやるのはごく自然なことである。ヨーロッパではこれは普通である。自分も演奏会形式オペラは国内外で何度も指揮も企画もしてきたが、これはオペラの基本的な部分においてものすごく大事なやり方でも考え方でもある。


オペラの音楽チームの序列の違い、これはそのままその劇場、団体、地域のオペラに対する考え方や意識レベルの表れとなる。ある意味文化、歴史、人間である。この序列の違いから調べると色々見えて来るわけである。


少し話が変わるが、日本のオーケストラの世界を参考までに少し見てみよう。オペラ界に比べればオーケストラ界の方がはるかに指揮者の必要度が高く存在は確かである。しかし、ヨーロッパに比べると決して指揮者の地位は高くないという現実もある。日本のオーケストラ界では、一番高くあがめられるのはソリストである。そしてオーケストラの中ではコンサートマスターがとにかく絶対的である。コンサートマスター≧指揮者である。ゆえに、一見指揮者が高く見えるかもしれないが、実はコンサートマスターを中心に回っていることがほとんどである。ゆえに、指揮者の序列は決して高いわけではない。反面、ヨーロッパのコンサートマスターはと言うと、確かにオーケストラのリーダー的存在であることは世界中同じかもしれないが、日本ほど仕切ったり指揮者に変わって何かをするということはない。あくまでファーストヴァイオリンの首席奏者兼オーケストラのリーダーで、必要があれば代表して指揮者とコンタクトを取る、そういった感じである。この指揮者&コンサートマスターの関係は日本とヨーロッパでは真逆と言ったら言い過ぎかもしれないが、結構違った認識になっている。またプレイヤー有志が集まって室内オーケストラのプロジェクトを立てた時、基本的に指揮者なしにする。予算的理由もあるのかもしれないが、できれば指揮者なしでと考えているプレイヤーが多いの事実。これには理由は二つある。人間心理学的理由と、指揮者嫌いな文化である。これに関してはかなり話せば長いのでここでは控える。


話を戻してまとめる。オペラ界の音楽チーム&演出舞台チーム、オーケストラ界の指揮者&コンサートマスター、それぞれが日本とヨーロッパで違っているというのはある意味似ているような気がする。キャラクターは違うので一概に比べられはしないが、あるものが逆という意味では似ているようにも思う。


序列とは日本では偉い偉くないといったイメージで見られがちだが、本来これは組織やシステムでの役割分担である。でもそれがどう考えられ、どう見られ、どう位置付けられるかで、やり方や意識レベルが反映される。日本とヨーロッパのオペラとオーケストラを経験して、ここに書いたような現実と違いを色々学んだ。日本にも沢山いいところがありおもしろい要素があるが、しかしオペラ界を中心の音楽へ対する見方、考え方等、見直すべきところは多いと思う。今の日本の社会でオペラ劇場をある程度の数作り、コレペティトアや指揮者の就職口を作るというのは残念ながら不可能かもしれないが、しかしそんな中でもできることは探せばあるように思う。そんな風に考えて動くオペラ人が増えてくれればと願いたいわけである。


メカニックとは

音楽の世界には、音楽的(感覚的)とメカニック(理論&技術的)とがあるように思う。これらはやはり人間である演奏家の性格などによって決まって来るものだと思うが、しかし線引きが難しい部分もある。基本的には皆音楽をしようとしているわけである。その上でより感覚的か技術&理論的かというわけだと思われるが、何がどうそうであればそうなるのかということである。単純に、メカニックでなければある意味音楽的なタイプかそれ寄りになるのかもしれないが、ではメカニックとは何かである。


まず前記の通り、技術的、あるいは理論的な場合である。言葉からメカニックなイメージがすでにするかもしれない。理論的なタイプの演奏家は、音楽の理解から解釈まで全てを理論的に考える、言わば数学的、幾何学的なタイプと言えよう。日本では音楽は数学だと言う者がかなり多くてびっくりするのだが、ヨーロッパではこれははっきり言って真逆である。ある名指揮者は「音楽は100%数学ではない」と言い切る。また自分が留学時代に指揮科友人にあえてこの話をしたところ、何を馬鹿なことを言ってるのかと言わんばかりに笑われた。これはヨーロッパではごく自然なことである。話を戻して、これはその人の性格やタイプの話であって、程度は違えど世界中にこのタイプは存在する。そして感覚的タイプは、フィーリングや音色等、あるいは音楽の物語や歌詞の内容等からイメージを膨らませる要素が多いであろう。それを楽譜から読み取るわけである。


例えば、楽譜に向かう時である。最初は皆同じものを手にして読み始めるわけであるが、ここからがその両者によって結構違って来る。音楽理論等から考えて読む、歌詞の内容等からドラマを考え始める、など。また演奏においても、メカニックな場合は機能的観点からアプローチする傾向が強いので、縦合わせを筆頭に形から入る要素が多くなる。要するに技術先行やソルフェージュ重視的になりやすい。感覚的な場合はフレージングや音色や呼吸等を重視する傾向が強いかもしれない。これはほんの一例に過ぎないが、あげればキリがない。実際に演奏活動されてる方なら色々なことが思い浮かぶであろう。


これらは基本人間の性格的なものなので、人それぞれのいい部分をうまく使えばいい方向に行くことは確かである。しかし、いずれのタイプであろうと忘れてはいけないことがある。我々の目的はあくまで音楽をすることである。本来音楽と言う目に見えない形のないものを、楽譜を通じて理解&解釈して演奏する、形はないがあたかも形があるかのようにする=演奏する、これが演奏家の仕事である。その為の方法や手段としてであればいいが、よく形を作ることが最大の目標になっている場合がある。それはやはりメカニックなタイプの方に多い。決してそういうタイプの方を否定するわけではないし、そういう要素が必要な場面もよくあるが、しかし特に西洋音楽の文化&伝統がない日本人らを筆頭に気をつけねばならないことである。元々西洋音楽の中身を持たない我々が形から入れば、それは中身がない=日本人のもの、にしかならず、西洋音楽にはなれないのである。また別の視点で、声楽家で言うならば、声を出すことが一番大事(発声の技術が一番大事)となると、声を出すことが最大の目的になる。同様に器楽奏者ならば楽器の技術(超絶技巧)で指を回すことなどが、指揮者ならば(自分が)棒を振ること=オケの縦を合わせることが、などなど。これらは過程の中では必要なことではあるが、あくまで音楽をするための手段の一つに過ぎない。このことを決して忘れてはいけない。そのポイントを押さえた上で、それぞれのタイプの者がどうすべきか、考える必要があると思う。


声楽家の場合は、傾向としてメカニックなタイプは他よりは少ないかもしれない。しかし前記の発声技術に固執するタイプは多い。また演奏はメカニックではなくても、考え方がメカニックな場合もよくある。例えば、やり方等でこれはこうすべきと習ったからこうだと思いこんだり、自分の声の適役を間違って思い込んでいたり。こういうのは声楽家に多い。ちなみに声の適役とは国や地域によってかなり違いがある。これは長い話なので機会を改める。話を戻して、メカニックとは何も楽譜や演奏に対してだけでなく色々な局面で登場する。


一方では、声楽家は演奏上は確かに他の演奏家よりはメカニックが少ないのも事実である。やはりテンポ、リズム、音程が残念ながら弱い傾向にあるためであるが、それゆえにコレペティトアには歌手のそれらを修正すべく業務が常に課せられる。確かにそれができるのはコレペティトアだけであるし必要不可欠である。しかしさらにそれゆえに、コレペティトアや指揮者にはメカニックな者がものすごく多いわけである。もちろん理由はこれだけではないが、しかし今日多くのオペラ劇場等で過剰にメカニックな指揮者&コレペティトア=機械的で声楽の理解に乏しい者、が非常に多い。これはオペラという音楽を壊すことになり、さらには1~2プロジェクトならともかく長期的にそれが行われた場合、声楽家の将来を潰してしまう。声楽家の弱い部分を補おうとした結果良くも悪くもである。実際に最近はよく起こっていることでもある。


オペラだけの問題ではないかもしれないが、特にオペラの場合はまずコレペティトアが声楽家と長く接するわけである。そういった問題から声楽家を救える可能性を一番持っている人種と言えよう。声楽家にも当然いい部分は沢山あるし、それらをもっと生かせる者が必要である。指揮者も同様ではあるが、その辺を理解し実践できるコレペティトアこそが今の時代、これからの未来に必要である!


表現と陶酔

この二つははっきり言って真逆である。しかし日本ではとんでもない勘違いが多い。両方の区別がなくなったり、ごっちゃになたり…。演奏家にとってある意味最重要と言えるかもしれないぐらいのことだが、表現と思って陶酔している人が残念ながら結構多いのである。


表現とは人に伝えること、陶酔とは感動して自分自身が浸る、内に入り込むことである。言いかえれば、表現は自分から人へ向けて、陶酔とは自分の内へ、要するにこの二つは本当に真逆である。しかし、この自分の内である陶酔を表現を思い込んでしまっている勘違いが非常に多いのである。これは、傍から見ると本人が一人で酔いしれたり、いってしまっていたり、といった状態である。よく見ることかもしれないが、これは演奏家=表現者としては論外である。もちろん演奏家はまず自分自身が感動しないと表現の対象である音楽が分からないということになってしまうので、まずは聴き手の立場や勉強する時には陶酔することはある意味必要かもしれない。しかし演奏する場合は前記の通り方向が真逆になる。そしてさらに難しいのは、演奏家の場合この問題が他の要素によってごまかされやすい場合もよくある。例えば声楽家なら持ち声がものすごくいい場合、ピアニストなら指の技術が物凄い場合、など。これらはあくまで演奏技術等の表面的要素であり、表現などの音楽的部分ではないから人に感動を与えることはない。しかしハイレベルの技術や美声は人を圧倒することはできる。それにより表現の悪さをカバーしている場合もある。これではテクニシャンであっても表現者ではないわけである。


特にオペラの場合難しいのが、まず声を一番大事と思い込んでしまっている歌手、演技が一番大事と思い込んでしまっている歌手が残念ながら非常に多い為、それゆえに自分が役になり切る、演じるということが変に過剰になった場合、陶酔や自己満足につながりやすい。また声というのは楽器と違って自分では聴こえにくい。ゆえに外へ出す表現と内に込める陶酔がごっちゃになりやすい。その辺が声楽の難しいところであろう。自分が指揮者として、コレペティトアとして、これまでに多くの歌手と共同作業をしてきたが、問題が起こる時の大部分はこれらの問題であることが極めて多い。しかしこれはその場やそのプロジェクトの期間で修正することは不可能に近いわけである。でも指揮者&コレペティトアがそのことを分かって冷静に見極められれば、それでも少しでもレベルの高いものが作れる可能性は高いわけである。またオペラの現場においてこのことに気づけて指摘できる冷静な立場にいる人材は指揮者&コレペティトアだけかもしれない。もちろんまずその音楽、楽譜が大事ではあるが、同時に同様に表現についても考えるべきである。指揮者は自らは音は出せないが、一緒に演奏するわけであるから、歌手以上にそのことを分かっていればさらに歌手に対していい導き方ができるはずである。コレペティトアも練習の段階から歌手に指示ができるので、比較的早い段階から表現レベルが高い公演を目指す支えになるであろう。