Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

何ができるか

近年日本でもコレペティという言葉が知られてきているが、未だに正しい理解はほぼない、というより間違って理解されたり変えられてしまったりしていることが多い。しかしながら、コレペティに興味を持ち、中には本格的に学びたいという者は出てきている。とは言え日本には未だ本物を本格的に学べる環境も機会もない。


自分もこれまでに何人かまじめにコレペティと向き合おうとする者に出会った。実際に教えたり協力したりもしている。とは言え、日本では環境的に限界があるので、試行錯誤の連続でもある。コレペティの中身は伝えられたとしても、ではそれをどう活用して実践につなげるか、これはその次の段階である。以前自分がオペラを振る際、練習時に自分でコレペティをさせてくれとあえてお願いしてやっていたこともある。この時、日本ではコレペティは単にオペラの現場でピアノを弾くだけと思われていることが多い為話が通じず、指揮だけに専念して下さいと言われたこともある。とんでもない勘違いで、単に棒を振りながらではなくピアにを弾きながらなだけでやることは同じなのだが…。これはほんの一例だが、結局のところ日本では学ぶのも実践するのも難しいわけである。そんな中、本場での経験のある我々に何ができるか、要は底である。環境や既にある者を利用することは本物をやろうとすればするほど難しくなり不可能である。ではどうするか…。最近も新たにコレペティは本格的に勉強したいと言う方に出会ったが、その辺を中心に何をどう協力できるかを考えて行きたいと思う。これもまたコレペティトアとしての大事な挑戦だと思う。


本当は見直すべき部分

日本でもたまにオペラに関する講演やセミナーが行われることがある。しかし残念というかよく分からないのが、その全てが舞台や演出目線のものであり、音楽目線のものを少なくとも自分は見たことがない。確かにオペラは舞台作品であるが、それ以前に音楽作品である。オペラのそういった会が開かれること自体はいいことなのだが、音楽というオペラの最重要部分を省いてすっ飛ばして舞台や演出面だけを見ているのでは永遠にオペラにはならない。


しかしこれが日本の現実でもある。オペラを音楽ではなく舞台=芝居としか見ていないという。要するに音楽には興味がないというわけである。それゆえにそういったオペラの会の講師に指揮者が呼ばれることはまずない。なぜなら興味もなければ追及する気もない、芝居が全てと思っているからである。その証拠に、指揮者を中心のオペラの音楽を作る人種は地位がない、と言うより重要人物と実質的にされていない。日本のオペラ現場での指揮者と演出家の立場の違いと注目度の差はものすごい。日本独特の現象である。結果、某雑誌はオペラは芝居だとあえて強烈にアピールするかのごとく、オペラの案内では可能な限り徹底的に演出家を一番先に書き、指揮者を後にする。同時にオペラ公演紹介分も誰のどういう演出がということを真っ先に書き、指揮者が誰でどんな音楽をということはほぼ書かず、有名な指揮者の時だけ宣伝効果で名前だけ書くと言う。全くもってオペラを冒涜してなめ切っている行動に外ならない。そういうつもりではないのであろうが、しかし世界の現実からすると結果そうでしかない。正直、この表記は教育に悪いし、オペラ人として抗議したい。


コンクールの弊害

近年世界中に大量に存在するコンクール。特に日本は異常なまでのコンクール崇拝国、自分が知る限り断トツ世界一である。ヨーロッパではコンクールは全く信用されておらず、音楽を分かっている人は相手にもしないが、しかしビジネスとして成立しているため数は増えて来て、不況の現代においては残念ながら機能してしまっている。


結果的にコンクールは多くの新進演奏家を輩出してることになっているが、ちょっと待て欲しい。この新進演奏家とは一体どの程度の者なのか?中には悪くない者もいる、特に若手対象のコンクールは正当な言い方をするならば将来性のある者、すなわち、何年とかにはある程度のレベルに成長するであろうとの期待から現時点ではそこまでの実力じゃなくてもあえて通すこともる。しかし現実的には、コンクール覇者の実力にはかなり問題がある。理由はいくつかある。まず、単純に短期決戦のコンクール、ある程度ん年月をかけて培ってきたものをそんな短時間で判断できるわけがない。短期間で発揮するのも実力という言い方もあるが、そもそもそんな曲芸師的な見世物ではないので、人が感動する喜ぶ演奏とは根本的にそういうものではない。ゆえに、見世物的小品=コンクールビジネスと言うわけである。さらに、それゆえにであるが、コンクールに入賞するにはとにかく音楽やや芸術云々はほとんど関係なく、とにかく技術などの一瞬の見栄えの良さが必要になって来る。音楽とは本来中身が重要で、何を持っているか、何を感じているか、何を表現したいか&できるか、である。技術と言うのはそれらをやるがために必要なもので訓練によって後からついてくるもの。コンクールを目指す者が増えて来た現代では、音楽=中身ではなくこの表面的な技術が求められため音楽性や芸術性の低い演奏家=形だけのテクニシャンが増えて来たわけである。ゆえに世界的に演奏家レベルは落ちてきている。


西洋音楽の伝統がなく未だ本物が知られていない日本では、演奏家の良し悪しは全てコンクールに委ねているかのごとく、コンクールに通っているかどうかでしか評価されない。演奏レベルが低くても、コンクール歴があればそれが正しいのであろうと信じ込んでしまっている。結果致命的演奏であっても一流の演奏家とされてしまっていることが極めて多い。逆に言うと、素晴らしい演奏をするのにコンクール歴がないから差別され叩き落されている本物も実は少なくない。とは言え、実は聴衆は素直なところもあり、中には演奏の良し悪しを純粋に感じている方々もいる。しかしメディアやプロモーション側が売る為にコンクール歴を必須にしているため、聴衆は本物の演奏家に出会えないという現実である。個人的にはそういった純粋な聴衆の方々にもっと本物を提供できる機会が出来て欲しいと切に願う。


コンクールはビジネスと書いたが、要するに主催者はビジネスマンである。音楽の専門家ではない彼らがすぐに商品になりやすい者を選ぶのは仕方のないことである。その為コンクールは芸術家ではなく技術者が選ばれるべくしてそうなっているのであるが、これにはさらに裏がある。コンクール崇拝者は信じたくないかもしれないが、世界中で明らかに事実なのではっきり書く。コンクールによってキャラクターは目的に違いはあれど、多かれ少なかれビジネス的成功を目指すことは当然である。その為、コンクールには主催者のシナリオが存在する。その辺を役員や審査員を巻き込みつつスムーズに流していく、それがコンクールの実態である。要するに、主催者のシナリオ、コンクールに通す者=通す予定の者というのはあらかじめ決まっていることが普通である。中にはそういった目ぼしい者がいない回もあるが、その場合は受験者の中で主催者の思惑にはまる者を選ぶ。ということは、当然演奏的実力ではなく前期にビジネス的商品価値=見栄え重視の技術者であり芸術家ではない、という者にチャンスが来ることになる。特に不況で余裕のない現代はこの傾向が昔よりもさらに強まっている。いずれにせよ、コンクールとはそういう世界である。表には見えにくいことだが、分かる人には分かるし気づく人には気づける、有名コンクールになればなるほど証拠隠滅や見せ方がうまい、マイナーコンクールはその辺が下手なのでバレやすいこともある。コンクールを受けるにも、メジャーなものになればなるほど準備機関から遠征費用も相当かかってくるし、まじめに人生かけている者ほど必死に準備してくるので、そういう者らのことを考えると非常に心苦しい現実である。しかし残念ながらコンクールとはそういうものなので、受ける場合はその辺を充分理解した上で受けるしかないしそうすべきである。受かるには、何かしらのコネを見つけるか、それなりのスポンサーを見つけるか、あるいは数打てば当たるの法則で受けまくる大博打をやるか、そのどれかである。夢を壊すようであるが、しかしそれがコンクールである!


ヨーロッパの現実を一つ。いくらコンクールは信用されていないとは言え、ビジネス的には成功を収めているコンクールである。かつては劇場の専属指揮者=Kapellmeisterはコレペティトアやアシスタントでの長い下積みの後指揮者に昇格する叩き上げが当たり前であった。しかし最近ではその下積み経験が全くないコンクール指揮者がいきなり劇場と専属契約と言うことがかなり増えて来た。ベテラン歌手らは嘆いている、そんな者にオペラは振れるわけがないと。しかしそれで強引に流されている。ゆえに指揮者のレベルはどんどん落ちる一方。ということはコレペティトアももちろんそれに比例し、さらには歌手のレベル、はたまたオペラのレベルもが落ちて行くしかない。誰かがどこかで歯止めをかけるか、本物を出せる場を作るしか手はないが、現状それはなかなか難しい。これはかなり危機的なことである。同じことが他のジャンル、楽器でも声楽でも言えるわけである。


コンクールとは一見ドリームジャンボのごとく若者の夢を掴む憧れのようであるが、実は真逆である。運よくうまくそこにはまって上位入賞できた者はいいが、ほとんどの者が嫌な思いをしている。そしてその現実に気づかず永遠夢を求めて受け続けている者は、ある意味気づいてないということで幸せなのかもしれないが、知っている者からするとものすごく心が痛い。この現実、何とかならないものかと思ってしまう…。