Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

責任

来月都内にてコレペティのマスタークラスを、同じくコレペティトアの友人と共に行う。ちょうど1ヶ月を切ったところで、その友人ともぼちぼちテンションが上がり始めているところである。日本ではまだまだ正しい理解がされていないジャンルであり、それをあえてマスタークラスという形で行う、これにはかなりの責任を感じる。


まだ知られていないことを伝える場合、良くも悪くも第1人者的になって来るわけである。極端な話、2通りある。一つは本物を正確に謙虚に、もう一つは個人感情で自分の都合で。実は後者は世の中意外と結構多いようである。例えば本ネタのコレペティトア、日本では正確に理解されてないだけならまだしも、すでに間違った情報、知識、理解が広まっており、むしろその間違ったものになりかけているようなところがある。現代ではネットを中心に情報は得やすいが、しかしネット上の情報を全てそのまま信じていいのか?ものによると思う。確かに現時点では日本語で読めるネット上のコレペティトアに関するものは数が相当限られているため、確率論的に正確な可能性も残念ながら低いわけである。そういう自分もその一つをここでやっているわけではあるが、信頼性のない情報や出典等に頼らず現地で得た正確な情報を伝えることに特に集中しているつもりである。最低限度の知識と経験で以ってやらないと、たとえどんな出典でも発言でも、それを正確に理解して行うことは不可能である。まだ知られていないことを公に発信する場合、こういったことを認識した上で、決して個人感情ではなく、あくまでヨーロッパの本物のコレペティトアに関することを伝える、ということを第1に考えねばならないし、自分はこのブログでも、実際に指導する時でも、そうしている。


話を戻して、今回のマスタークラス。日本でコレペティのマスタークラスは稀である。自分は数回目だが、それ以外は基本的に聞いたことがないようなレベルである。それだけに、本物を伝える責任を強く感じる。第3者、すなわち専門家ではない知識人等が行う会ならまだしも、実際にコレペティトアとして活動する者がこれをやる、一番信頼性があるべきもの、友人と共に最高な会にできるよう努力したいと思う。


まず最初に認識すべきこと

かなり初期にここにも書いたことだが、コレペティトアとは指揮者であり、コーチ又はトレーナー、音楽助手=アシスタント、すなわち裏方である。ゆえに、ピアニストではない。学科的には指揮科かコレペティツィオン科出身者であり、ピアノ科出身者ではない。後に勉強し直して対応できるピアノ科出身者もいるが、根本的にやり方もやっていることも違うわけである。コレペティトアを目指す場合、まず最初に認識すべきことである。


ところが、日本ではコレペティトアと伴奏者が未だごっちゃになっており、多くがピアニストと思い込まれているようである。近頃少しはコレペティトアという名前とジャンルが知られつつあるにも関わらず、コレペティトアはピアニストではないということを未だ理解できていない、もしくは理解したくない、さらにはピアニストと決め込んで日本独自のジャンルにしようとしているようにさえ思えることもあったりする。コレペティトアとしては極めて違和感があり不愉快でもある現実である。


日本人は基本的に外から来たものを自分の都合に合わせてしまう性格が強い人種である。自分を外のものへ合わせると言うことは極めて少なく、むしろそれが嫌な人が多い。自分のように本場で本物を学び経験しそれを日本へ伝えようという試みを少なからずしている者やしたことある者であれば、この現実は直ぐに思い知らされる。人としてどんな選択をしてどんな人生を送るかは個人の自由であり第三者がとやかく言うことではないわけだが、しかし、もう少し謙虚に学ぶべきではないかと言うことがある。というのも、例えばコレペティトアとは本場ヨーロッパのものであり、それを謙虚に学び知るということは基礎である。応用と言うのは基礎があって、それからの話である。そのものを謙虚に受け入れず自分の都合に合わせてしまうとということは、基礎がない、基礎を飛ばす、ということである。自分はコレペティトアでオペラ指揮者なので主にこれらについて謙虚に学ぶということを伝えられるわけだが、それ以外のことでもその意識は大切にしている。


話を戻して、コレペティトアはピアニストではない。ピアニストにはできないしなれない。なぜなら、ピアノを弾くことが大事なのではなく、ピアノを弾きながら何をするか、すなわち歌手の為に何ができるかである。まずこの根本を最初に認識しておかねば、ぜんぜん期の通り基礎のない、要するにでたらめになってしまう。これからコレペティトアを真剣に目指したい方の為にも、さらには声楽家らの為にも、これらが正しく認識されることを切に願う!

日本オペラ界の勘違い

日本のオペラ歌手陣は一部の例外を省いて皆とにかく演技をしたがる。明らかにまずは自分がやりたいというわけだが、それだけならば個人の好みなので個人の勝手で済む。しかし問題はその次である。彼らは皆、演技することがお客さんの為だと思っているところがある。確かに数少ない日本のオペラファンはそれをいいと思ってるわけなのでその範囲内であれば正論かもしれない。しかし、日本のオペラファンは滅法少ない。同じクラシックファンでもオペラファンは一番少ないのではないか。例えばオケのファンと比べると圧倒的に少ない。理由は色々あるが、その一つに、オケのファンと当然音楽のファンだが、オペラは音楽とは思えない&感じられないということろがある。それは日本のオペラが強制芝居化されてるからである。本来音楽なはずのオペラがなぜ芝居に…、その時点で純粋な音楽ファンは引いてしまう。逆に言えば、オペラ歌手は演奏家であり役者ではないのに、なぜ音楽を捨てて音楽で無理矢理芝居をしたがるのか。そして演奏家のオペラ歌手は役者ではない=演技の専門家ではない。もちろんオペラには演技があるが、そもそもオペラの演技は芝居のそれとは違う。オペラ歌手は演技だけで役者と同等にはなれないし、オペラにはオペラの動き方が=音楽の中での対応がある。ゆえに、日本のオペラ歌手の強制芝居化オペラは、そのごく一部のオペラファン以外からすると奇妙で気持ち悪いものでしかない。


要するに、オペラで演技を重視するということは、オペラの定義から明らかに外れるどころか、完全なる内輪の自己満足でしかない。そしてお客さんの為を本気で真剣に考えるのであれば、純粋にオペラをやる=音楽重視、これしかない。そのわずかなオペラファンの為も必要ないとは言わないまでも、それ以外、すなわちファン層拡大等を考え行動すべきではないか?ピアノ伴奏、舞台セットもなくリノリウムすら敷いてない舞台、はっきり言って演技する必要がないわけである。そこでも尚音楽を意図的に後回しにして演技ばかりやる、これでお客さんの為と言えるわけがない。確かに身内(家族や友人等近い範囲)だけならそれでいかもしれないが、それではオペラ文化は広がらない。日本でオペラが発展しない理由は、まずは外国語などの異文化的要素がネックになっているというのもあるが、何よりオペラ歌手らのその自己満足こそがその最大の理由と言える。


オペラの強制芝居化=演技重視(音楽後回し)、これこそが日本のオペラ界最大の特徴であるが、しかしこれが一番マイナスであることにほとんど誰も気づいていない。とんでもない勘違いである。決して見下げたり馬鹿にしてるわけではない。ただただ少しでもい方向に向いて欲しいと切に願うから書いてるだけである。