Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

レベルが高いということ

レベルが高い、すなわち超一流演奏家とはどういう領域なのだろうか?そういうレベルの演奏に出会った経験のある人は何となく分かるだろうが、そこには技術とか理論とかはすでに存在しない、はるかに超越した感動がそこにある。ではそれはどういう世界でどうやってそこに辿り着くのか?もちろんそれが分かったからと言ってそこに到達できるわけではないし、その前にほとんどの人が大事なことに気づかずに終わってしまう。


大事なのは、何に感動するかというポイントである。その音楽が表現され心地よく伝わった時である。ようするに、人が感動するのは音楽である。技術ではない。物凄い高度な技術は人を圧倒することはできるが、それだけでは感動にはならない。もちろん高度な技術ゆえにその人の存在に感動することはあるかもしれないが、それはあくまで人単位のことであり、音楽や演奏のことではない。感動と圧倒は別物である。


よく練習段階において、メトロノーム的のことで、縦を合わせるというさぎょうがある。日本ではかなり強い傾向だが、それをどこまできっちり実践できるかがレベルの高さとされているところがある。これは技術に通ずるものでもあるが。もちろんプロとして演奏する以上ある程度大事なことには変わりないが、しかしこれも前述の技術的な範囲であり、どれだけ実践できたところで感動ではなく圧倒である。決して必要なわけではないが、しかしこれの精度が極めて高いからと言ってそれがレベルが高いということは消してない。もちろん低くはないが、あくまで演奏する家庭の一部分である。さらに言うならば、表現するためにあえてずらすことだってある。ある巨匠はこう言う。「ズレてもいいから音楽を」と。冷静に考えて頂きたい。完璧に縦が合って一寸の狂いはないが何も感じないtまらない演奏と、ズレてはいたが本当に楽しかったり泣けたり店という演奏と、明らかに後者の方が満足感があることとは言うまでもない。これこそが音楽である。音楽とは技術や理論では本来ないわけである。例えば、アマチュアの演奏だって感動することはあるし、プロの演奏でもつまらないことはある。プロとアマを比べても仕方ないが、何が音楽かと言えばそういうことであるし、その音楽がどれだけのものかということこそがレベルが高いというわけである。


今日オペラのレベル低下が著しい。総合芸術で音楽全ての土台とも言えるオペラが低下すると行く末は恐ろしい。オペラ黄金時代と言われた時と比べると、名指揮者や名歌手が明らかに減ってきている。特に指揮者はそうである。それによりコレペティの傾向も変わって来るし、結果歌手のレベルを左右する。歌手とは音楽的に繊細な要素を持ち合わせている。人の声とは人の感情が直結するもの、楽器よりもはるかに繊細である。ゆえに歌手はどんなに正確に歌う訓練をしたところで、メトロノームにはまり切るものではないし、はめ込むべきものではない。はめ込めばはめ込むほど窮屈になり、よって音楽が死んでいく。しかし残念ながら、今日の下積み経験に欠ける指揮者&コレペティトアはそのことを知らない。前述のように、正義感のごとく歌手をメトロノームにはめ込むことを強要し、それこそがレベルだと勘違いしている。確かに歌手にはそういった正確さは欠けるかもしれないが、しかし歌手のそこにはいい部分、すなわち人間の自然な音楽が存在している。それを使わずして最高の音楽はない。コンクール指揮者=下積みのない指揮者が劇場の主流になりつつあるこの時代、そういった歌手のいい部分を知らず、気づかず、指揮者&コレペティトアの都合にはめ込んだ結果多くの歌手が潰されているという現実は心苦しい。その歌手のいい部分とは、機械(メトロノーム)や数字では表せない人間の鼓動から来る絶妙なテンポや揺れであり、それこそが声楽の神髄である。もちろんそれゆえに好き勝手に歌っていいというわけではないが、それを知ってうまく対応できる指揮者&コレペティトアはもういない。地味で面倒くさくても、しっかしと音楽を、声楽を、オペラを学ぶべく時間をかけて下積みをする指揮者&コレペティトアは今こそ必要である。それこそがオペラのレベルを上げ、新たな真のオペラ人を発掘する。そして、もしそれができれば、新たなオペラ黄金時代が到来するかもしれない。