Der Korrepetitor

オペラ指揮者&コレペティトア・宮嶋秀郎がコレペティについて語るブログ

型にはまるということ

日本は型文化である。型にはまることが美徳で、そうでないと弾かれる。これは元々武士や軍隊から来ている者と思われる。基本的には洗脳的な教育で受け継がれてきているが、島国の日本ではそれが完全に浸透し、日本人は型にはまることが一番安心になり、結果形から入る、見栄えから入る、ということが大好きになってしまった。これを日本文化と言ってしまえばそれまでだが、しかし反面危険なことでもある。確かに日本の中だけで決まった生活をするだけならそれでいいかもしれない。いや、その方が生きやすいだろう。しかし今日の国際社会において、とくに我々西洋音楽を専門とする芸術家にとって、この日本人が一番好きなものが一番の短所になっていることにほとんどに人が気づいていない。


西洋音楽、よそ者の芸術である。それを日本人がなぜ型にはめてはいけないのか?簡単なことである。人間が方にはめるという行動を行う時、それはその人の考え方で行われる。要するに、ヨーロッパで生まれた全く異文化な西洋音楽を日本人の枠で勝手に解釈して形にしてしまうと言うことになる。この時点で明らかに本物とは違うでたらめであることがお分かり頂けると思う。こう言うと、それは個性だとか、自由だとか言う人が多いと思うが、個性や自由で好き勝手をやっていいほど甘い世の中ではないわけである。例えば、外人が日本の伝統芸能を個性や自由などを理由に勝手に好き勝手にやった結果、極めて外人的で日本的でないものになってしまったとしたら、それは全日本人が全否定するであろう。というより生理的に受け付けないであろう。型にはめて好きなっ手に西予音楽をやってしまう東洋人は、西洋人にまさにそのように見られている。ゆえに人種差別で「東洋人には西洋音楽ができるのか?無理だ」となってしまうわけである。


人間とは精神的感覚的生物である。何より中身が大事な生物である。型にはまる、すなわち形から入るというのは、その中身(本能)を無視していることになる。ある人はそういうのは甘いだと言う者もいるが、それは完全なる理不尽な軍隊的?発想である。芸術においても、まず形、それから中身と日本ではほとんど場合教えられる。正確に言うと、これはまず技術、まず理論、後から内面や表現と言うわけである。しかし前述の通り、西洋の感覚のない我々がその中身も知らずに技術や理論から入っても無意味な話である。例え指は回っても音楽には一生ならないわけである。技術と言うのは本来、やりたい音楽をやるために後に開発されたものである。要するに、その音楽をやりたいがために練習して技術が身に付き、そして演奏可能になる。音楽(中身)が先、技術は明らかに後からついてくるものである。技術が先と言うことは…土地がひっくり返っても不可能なことである。真似のうまい日本人はそれっぽくできてしまうことはあるが、それはあくまで表面を案ぞっただけ、やはり形から入っている。結果形だけになり、色の塗られていない黒線だけの塗り絵状態である。


冷静に考えて頂きたい。いくら型文化とは言え、どんな人間は本来中身から入っている。例えば日本人が日本の者をやる時。頭の意識では形や技術からと思っているかもしれないが、実はその前に日本のものをやる時の日本人は、日本に生まれ育ち日本の感覚をすでに血と経験で持っているわけである。ゆえに頭の中では仮に表面的に入ってもできてしまう。なぜできるのか、自分はどのゆにしてそれを理解しているのか、冷静に考えれば、人間は皆中身から入っていると言うことが分かるであろう。ゆえに型にはまる、形から入るというのは、わざと不自然なことをやっているわけである。実にもったいない。これでは才能や能力がつぶれるだけである。勘違いしてはいけないのは、留学などした場合、外人教授は日本人留学生に技術的なことばかりを教えることがある。これは教授が現地の学生と同じように扱っているわけであるが、ここが落とし穴である。前述の日本のものと同様、現地人は現地の感覚を持っているので、いきなり技術から教えても成長できるが、その感覚を持たない日本人は不可能である。この場合その教授は外人の教えかあを知らないか慣れていないわけである。日本人は、感覚が違う人種ということを理解し、けっしえ外人の有名教授が技術から入るからと言って、技術=形が何より大事だと思い込んではならない。


音楽に話を戻すと、形から入る、技術から入るということはどういうことか?


声楽 → 発声の技術=声
楽器 → 楽器の技術=指先等
指揮 → 棒の振り方&縦を揃える


といった感じであろう。経験上思うのが、まず多くがこの形から入っている。その理由は主に2つ、音楽=中身を分かってないか興味がなも者、もう一つは自信のない者、である。前者は、分かろうとしているかもしれないがレベルが追い付かないか低いもの、あるいはひたすら数学的(非音楽的)で音楽を幾何学的にとらえる頭の固いタイプである。後者は、段階的か性格的か何らかの理由で何をどうしていいか分からないか迷っている変え自信がなく、とりあえず技術や形に頼れば安心と思いドツボにはまってしまうタイプである。どんなことでもある程度分かってきたら自身もつきおもしろくなるはずである。


今日のクラシック界はかつてに比べて極めて表面的になってきている。世界的にコンクールが流行ってきている今、若いうちにコンクールを目指すがためにコンクール常連者や入賞者は、一見手先は器用でうまく感じられるが、極めて中身の薄い表面的な傾向になってきている。かつてのコンクール入賞者はもっと質が高かったが、最近は大量生産型のようになってきた結果そのような傾向が強い。


真の深さ、強さ、そして本物、それは決して見た目や形ではない、肩を持たないもの、すなわち中身から来る真実である。表面的に作った見栄えよりも、中身が備わって結果できた見栄えの方がはるかに美しく素晴らしい!中身を磨けば外海を輝く。その逆は人間界でも自然界でもありえない不可能なことである。未だに古い固い境域で、自由だの何だの言って型を持たないのは甘いと日本では教育しているところがある。しかしそれこそが甘すぎる。そんなに簡単なものではない。型にはまれば安心だが、形とはあくまで完成品であり、まず形と言うのは、中身もないのにその場でおわらせてしまうということである。逃げずに現実と向き合い真実を目指す、それが一番強く深い人間である。音楽もそういった人間を素直に映し出す。